4月2日(曇り

 昨夜は、USAからの来賓の接待で、八王子某所へ。USAで大ヒットした教育玩具のプレゼンテイション。コロンブスの卵的発想に、ショック。

 このところ買った本、TOEIC必修単語(ジャパンタイムズ編)、弘兼憲史「人間交差点」{団塊の世代のメロドラマにいささか食傷}。便利なサービス、「日経BP記事検索サービス」(有料)。ダウンロードできる記事はPDF形式。但し写真は低解像度みたい。午後、モンゴメリ「赤毛のアン」(新潮文庫)、キング「呪われた町」(上下巻、集英社文庫)、シェリー夫人「フランケンシュタイン」(角川文庫)しめて450円。「山・動く」(同文社インターナショナル)。

 桜が咲き始めた。石神井川の辺、桜の下を歩いていたら少し晴れやかな気持ちになった。

4月7日(曇り後晴れ

 花曇りの朝。と思いきや、昼間は日が射した。その柔らかい日差し、桜の花のもとで、長男の中学入学式。お世話になった上級生たち、先生方どうもありがとう!こじんまりとした学校だが、そのぶん先輩後輩、先生生徒仲がいいようで安心した。

 日経エレクトロニクス届く。特集「頂上決戦」とはずばりPS2 vs X-BOX のこと。注目してること http://www.excosoft.se/  http://www.netschools.com/  

4月8日(晴れ ケイタイあるいはガラス越しのキス

 花冷えの夜、いつものように自転車を疾駆して帰る。いつもの酒屋で酎ハイを買う。店先で赤ちゃんをあやしている若い母がいる。慈愛に満ちた笑み。どこか昔の教え子Gさんににたハーフぽい顔立ちの若い人妻。はたまた若い夫婦が車に乗り込むところに出くわす。よっぽどうれしいことがあるのか、それともたんに可笑しいのか、すれ違う僕を見てすら、にっこり笑っている若いひと。あるいは、毎日蕎麦を食べるソバ屋で隣の席で食事をしている老人たち。歳のころ70代半ばか?「わたしのしってるほら、Aさん、ネ、飼ってた猫がこないだ死んだのよ。16年生きたんだってサ。Aさんたらサ、電話口で、ぼろぼろ泣いてるのよ・・・。」婆さまがぽつりぽつりと話しをする。(ほら、下条アトムのとうちゃんの、ああ、名前が思い出せないが、寅さん映画のご主人役のひと)そのひとにそっくりのご老人が静かにつぶやくように相づちをうつ。「そりゃア、・・・16年も一緒に暮らしてりゃあねえ・・。・・・・」 文章で伝わらないが、このしみじみとした会話を隣で聞くにつけ、なんとなく自分もしみじみした気分になるのであった。おう、吉祥寺、老人と若者の街よ!中年の影は薄いぞ。そんな風に、そんな風に、自分はなぜか哀しかった。

4月9日(晴れ

 STEP-UP英単語・熟語TOEIC TEST(桐原書店)1600円。CDを集中して聴いて聞き取りの練習も兼ねている。ツタヤにてDVD「アルマゲドン」「GLAY」。アルマゲドンは、昨年ビデオで観たDeep Impact と同工異曲かと思いきや、最後は涙ぼろぼろ。父と娘、娘の恋人の確執と愛情に古典的な劇の格好をみたから。意外とよかったよ。図書館にて辻邦生「薔薇の沈黙 リルケ論の試み(筑摩書房)。遺著。奥様の辻佐保子さんがあとがきを書いている。私自身にとっては約20年ぶりのリルケ解読になる。「一夜一夜が、すこしも前の夜に似ぬ夜ごとの閨のいとなみ。産婦のさけぶ叫び。(中略)詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。」(大山定一訳、「マルテの手記」より)

4月10日(

 XMLに関する提案をA社から受ける。驚愕。と同時に1年前の自分の日記を読んで、先見性に驚いた。ここ。ま、たまには自慢させて。他、会社のDOS/V機に光デジタル端子つきサウンドボードをEさんに組み込んでもらった。これで音声素材のダイレクト編集にまた一歩近づいた。http://www.3b2.com/

4月11日(曇り後晴れ

 日経夕刊、全面広告。EICOH Web。してやられたという思いもある。はたまた、日経夕刊5頁。ソニーコンピュータサイエンス研究所。多士済々の研究者陣。もっともだ、意識といい自己/他者の認識といい、哲学の研究に関して自然科学の研究者が一歩先をいってるという自負の高慢さが気にいらぬ。おう!すべてを破壊し尽くして、蕩尽ののちに残るものと秘かに愛しあいたい自分がいた。文藝 と。

4月12日(晴れ 姦淫への同情

 深さよ深さ、他のいのちを見つめるがごとくあなたを愛した夢よ (ヴァレリー)

 「ナルシス断章」を訳詩と原詩を照らし合わせて読んだ、20年以上前の夏の日。その日父はまだ存命でした。その時、ヴァレリーの詩がもたらしてくれた幸せを、ゆっくりと思い出します。

 Jamme, Raforge, Nerval. ・・・。

4月14日(晴れ コペルニクス的転回

 四谷にA社を訪問。立派な応接室で、感動的なプレゼンテイションを受けた。XML技術の応用。いつの間にかDTPの主戦場は紙メディアとWWWの統合というテーマに移行してるのだ。Quark なら、ここで、Quark Avenue の紹介を見ることができる。

4月16日(曇り 

 昨日は、吉祥寺よみた屋にて、「谷崎潤一郎全集13」(中央公論社)500円。武州公秘話・春琴抄・吉野葛・葦刈などを収める。中世の昔、憧れの貴婦人の館へ、恋慕の余りこともあろうか廁の下から忍び込み憧れのひとの来るのを待つというとんでもない(はいぱーえっちナ)プロットは「武州公秘話」だったんだね。十数年昔、なにかの本で読んで以来ずっと気になってたのだが、吉祥寺の店頭で、はらりとめくったその瞬間に該当の箇所に巡り合えて、これもなにかの縁と思い、購入した次第。他の巻もバラで出ていたので、気がむいたら買おう。他にこのところ、長男の中学入学にあわせて「岩波国語辞典」「ジュニア・アンカー英和辞典」などを買っている。また、TOEIC用のテキスト2冊(ジャパンタイムズ)が届いた。

 日経新聞の話題から。日曜文化面、佐々木幹郎「人生を推敲する、ということ」。「新編中原中也全集」(角川書店)の編集を経ての感慨。文中、「作品はいつの間にか、作者の手を離れて完成する。しかし、完成させるのは読者であって、作者ではない。作者にとっては、書くということが全てではないのか。」とあるのはもっともな感慨だが、次のような箇所にはっとした。「実にこと細かに一枚の原稿用紙は、さまざまな過去の情報を教えてくれる。面白いことに、原稿をモノクロ写真に撮ったものより、カラーコピーのほうが情報量は多く、さらにオリジナル原稿の情報量は圧倒的に勝っている。筆記具やインクの違い、抹消箇所や重ね書きの復元などは、オリジナルでなければ確定できない。」常識的にいえば、テキストとは本来デジタルであって、オリジナルしか意味を持たない絵画と異なり、誰でもシェイクスピアやセルバンテスを、その通りに読むことができるはずだ。(ボルヘスはいう「シェイクスピアを読むひとは皆シェイクスピアである」)そんな常識が身に染みついているので、オリジナルのテキストのみがもつ作品の重層性・多様性こそが本来のテキストのあるべき姿なのではないかという指摘にははっとさせられた。インクの違いを見抜くことも、テキストの生成過程を分析するテキスト・クリティックの手法なのだ。

 同じく日経日曜読書欄、コラム「活字ので」は、拡大するネット書店を巡る論争を紹介している・季刊「本とコンピュータ」(トランスアート)のオンライン版をのせるホームページでの、議題「オンライン書店は本の文化を変えるか?」を巡る論議がこのほど紙の本としてまとめられたそうだ。「電子商取引は地域社会の活力を削ぐ」と主張するのは、米国の大学町バークレーの中小書店の店主アンディ・ロス氏。「ネット書店は地域社会に貢献してきた書店を危機に追い込む」と。いっぽう、スウェーデンの作家は、母国語で書かれた少部数出版物を流通させる可能性をネットに見いだしている。

 WBTやDVDの教育応用を研究する私設MLを設置した。午後、家族で記念写真撮影は石神井公園にて。同じく石神井にて日本詩人全集19「西条八十・大手拓次・堀口大学」(新潮社)100円。久世光彦の薦めで西条八十を読むことにした。

 夜、西条八十の摩訶不思議な詩境に酔った。こんな酔いは久しぶりだ。gooやLYCOSで調べてみると、「カナリヤ」「蘇州夜曲」「青い山脈」「同期の桜(原詩)」、母さんお肩をたたきましょ、トントントントン、トントントン。余技としての童謡や歌謡曲や映画の主題歌やら校歌の数々、見つかること見つかること。当時の家族の写真は早稲田大学のサイトでみつかった。これがそう。写真左から2人目のちいさい子は、西条八束氏。現在名古屋大学名誉教授であられるということまでLYCOSでわかった。詳細はここ。また、写真右から2人目の女の子は、後年父の詩集を何冊も編集している。こんなことがいろいろと調べられて本当にWWWは便利だと思った。

4月22日(快晴 

 雨上がりの快晴の日だ。

 机の引き出しの書けなくなったボールペンの類。なぜだか引き出しを占めるのはぼろい筆記用具ばかり。時折ごみ箱にぶちまけたくなるが生来の小心者でそこまでのことができない。ここにいたって忽然と悟った。すなわち新グレシャムの法則。使い勝手いい筆記用具は常に携帯し常に使うので自然と紛失する場合が多い。引き出しに貯まってゆくのはぼろいのばかり。

 日経NE「すべての機器にメモリ・カード」日経ビジネス「ケータイ 日本の世紀」

 昨日は大手町某超大手情報通信会社にて打ち合わせ。優秀なソフトウェア技術者と「会話」のできるFくん偉いゾ。(具体的にはSMILを使ったReal Audio の制御について)

 夜更け布団に入ると眠くて眠くて本を読むどころじゃない。谷崎潤一郎全集を手にとって布製の表紙の手触りを慈しんでいるうちに眠ってしまう。さすがの大谷崎といえども「鍵」の彼方に、このような淡いエロスの境地があるとは思いもつかなかったろう。奥付、谷崎の印紙のうえに貼り付けられたパラフィン紙すら、なぜかいとしい・・・。

 今日は母方の祖父の28周忌にあたる日だ。もっとも仏教の数え方では何周忌になるのかわからないけど。そんなことをちゃんと覚えているのは、この28年前の日に岩波文庫「父と子」を買った記録があるからだ。当時高校1年だった私は、祖父の訃報を寮で受けて、市電と船と国鉄バスに乗って実家に帰った。そんな慌ただしい小旅行の合間にすら岩波文庫を買うなんて、当時の自分もそうとうマニアだったんだね、っていまさらながら感心する。その小旅行の終わり、終バス(確か夜の8時くらい)のバス停で、ぼくはMさんと一緒にバスを降りた。3度目の出会いだった・・・。小さいときから自分を大事にしてくれた祖父の死を想って、ぼくは喪に服さなくちゃいけないと思っていたので、彼女に声をかけられなかった。彼女はK高校を出て、とある地方都市のデパートに勤めはじめていた。今思うと、入社してから3週間なのだから、見知らぬ職場でひどく緊張したり、とても疲れたりしてたのだろう。そんなことは当時の自分にはわからなかったが・・・。で、結局、その夜、今のひとには信じられないほど暗い夜道を、ふたりして黙々と歩きながら、ぼくたちは声もかけずに、家に帰ったのだった。

 ああ、なぜそんな陳腐な思い出を縷々と書くのかと、読者諸賢は思われることであろう。なぜ、そんな、陳腐な、ことを、書く、のか、と。なぜか。

 今宵、自転車を疾駆しながら、忽然と大悟した。この28年前の出来事を覚えているのは、宇宙でたったひとり、自分だけなのである。Mさんすらも覚えていないだろう、昭和47年4月22日夜8時すぎの出来事を、自分の大脳だけは特記すべきできごととして記憶しているのだ。祖父の死と、「父と子」の購入履歴と、Mさんとの再会の記憶とで。 ひと愛するとは?ひとに愛されるとは?そのひとの存在を、愛しているもしくは愛されている自分の存在を、この地球の時間と空間の履歴において、かろうじてユニークたらしめるもの。否むしろ、そのひとなり自分の存在を、かつてそこにありいまここにあり、そして死が存在を分かつまで、あらしめている、唯一のユニークなコード。として、「愛」はあるのではないか?

 そんなことを、自転車をこぎながら、春の宵、トラックや自家用車の疾走する環八の歩道で、たしかに悟ったのだった。今、明滅する挿入ポイントを見つめながら、さめざめと私は、泣いている・・・。

4月26日(

 今日からUSAに出張です。30日までお休みします。みなさんお元気で!

4月26日(〜4月30日() USA紀行あるいは僕の「マルテの手記」

 この間、買った本、「公的私的英文レター実例集」(ベレ出版)・「ひとり歩きのビジネス英語自遊自在」(JTB)。帰国後、石神井公園にて、中村真一郎「死という未知なもの」(筑摩書房)550円。そして今、松浦寿輝や久世光彦の本がひたすら恋しい・・・。

 26日午後の便で、Huston経由のAustin行きコンチネンタル航空の客のひとりとなった。現地到着は日付変更線の関係で、同じく26日の午後。ただしここまで13時間くらいが経過している。空港に迎えに来てくれたTiffany嬢の微笑を終生忘れることはないであろう。この日は、Austin市内のRadisson Hotel に一泊。もうすっかり夏である。27日朝、ホテルで朝食をとる。窓の外に、可愛らしいリスがエサをねだってガラス扉のそばで遊んでいる光景をみた。リス!リスのことをなんと英語でなんというのか、そのとき思い出せなかった。テキサス州の州都のとあるホテルの、とある時刻のリスとの出会い。しかしぼくはこの事実を伝える術を失っていた。この急性失語症のような事態をぼくは深刻にうけとめた。日常生活のなかで、ものと言葉とは不即不離に稠密に呼応しあっていてひとはそのことをつゆも疑ったりしないで生きる。しかしそのとき僕は失語症のように、リスを説明する言辞を失い、失いながらもリスの愛らしさを形容したい衝動にかられていたのだった。言葉とものの稠密な関係が崩落する事態。ここで絶望や失望を書くのはたやすいし、理にかなっている。しかし一方で、このものと言葉の関係の崩落を、静かで悲しい慰めとして愉しむ自分もいたのである。なぜならそのとき、ことばはものを離れて孤独に震えながらも日常の鎧やまとわりついた垢をふりすてて輝く可能性に賭けることもできるのだから。「マルテの手記」、リルケのパリ体験もこのような言語とものとの関係の崩落の危機のなかで書かれたのだろう、そんなことを直感した。ホフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」などとあわせて、この20世紀初頭の文人の危機感と、じぶんの体験をなぞらえていたのだった。この日、Austinのダウンタウンと近郊のハイテク産業団地のようなオフィスにて、しごとのうちあわせの合間に、じぶんはこの体験をPameraさんに伝えた。"This morning , I saw a squarrel outoside the restaurant , but I could not remember the word "squarrel" which means squarrel in English , then I felt loneliness." いったいこんな説明でいいのかどうかわからない。しかしPameraさんは自身のフランス留学体験の時のことを語ってくれた。ことばが通じないながい日々の孤独を。ぼくはこのことに深く癒されたのだったが、いっぽうでこの崩落を静かに秘かに愉しんでいる自分のことも考えていたのだった。

 この日は、というわけで、2カ所で仕事のうちあわせ。なにしろニホンゴの全く通じないなかで、すべてを英語で表現しなければならない。ひとりで。孤独であった。しかしいっぽうで、気遣ってくれるかたがたへの感謝も表したい。昼食。マイケルデル(Dell会長)の白亜の自宅の眺望。トイザラスやスターバックコーヒー。はたまた濃い仕事の討議。そしてPamera女史のご主人(若き日のダスティン・ホフマンにそっくり)を交えて夕食。Mary女史やこのPamera夫妻と別れを偲び、ホテルに帰り着いて寝た。

 28日早朝、NYへたつ。Huston経由でNY入り。ホテルでChan 氏とめぐり会い、再会を喜び合う。彼のオフィスはセントラルパークを見下ろす素晴らしい景観の、さる有名な摩天楼のひとつの一角である。ここから約15分の、某A社まで、急ぎ足の観光を兼ねて打ち合わせに向かう。Chan氏の取り計らいで、ここでも素晴らしい成果が得られた。Chan氏の厚誼にあつく礼を述べて握手して別れる。NY観光などする気力もない。ただし空腹になったので夜、ひとなみに市街にでて有名な通りのいくつかを散策した。唐突だが、日本って銀座や大手町でもコンビニがあるでしょ。やっぱり日本て、コンビニとケイタイの国なのね。そんな便利さはないNYの目抜き通りであった。(当たり前だ)たまたま通りかかった総菜屋とおぼしき店で、1 pieceのピザとビールを買い込み(そこのおっちゃんは5月に東京に観光に来るよし、Welcome to Tokyo! と歓迎の意を表しておいた)ホテルで寂しく夕食。

 とまあ、こんな風に過ごしたわけだが、ここではつぶさに書けない仕事の内容も充実していたのでまあよしとしているのである。USAにくるたびにUSAの光の部分につよく惹かれる。日頃マスコミを通じてUSAの影の部分に文明の病を思ったりするが、現実のUSAはどんな人種のどんなひとびとも一生懸命に生き、自分を表出し、禁欲的で勤勉で誠実で礼儀正しく、まじめで真摯である。このまじめさは、どこからくるのか?ウェーバー「プロテスタンティズムと資本主義の精神」か、プラグマティズムか?キリスト教の精神的バックボーンのなせるわざか?一生懸命に生きかつ自分を主張しなければ、ただの「ただのひと」で終わってしまう生存競争の苛烈さゆえか?儒教と仏教の国の、しかし背景には祖霊信仰とそぼくな原始神道がやどる東洋の島国の人間には、どうも不可解な思いも残る。特に男性の欲動はどこで発動しているのか?どうもその辺が謎で興味をそそるのだが、いまいちわからない。

 成田につくと、東京は相変わらずボックリ靴とガングロ娘のやたら元気な、そしてやたらケイタイをいじくってる娘の多い、いつもの風景であった。

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