12月1日(水) 晴れ後雨

日経朝刊、白川静の自伝始まる。川上弘美のエッセイ(日経夕刊)引き続き面白い。

12月2日(木) 雨のち晴れ

 垣屋三猫子さんの弊BBSへのご投稿に感激した。ぜひお読みください。

 慶応のS君と打ち合わせ。某プラットフォームでのゲーム開発について。含羞のある笑顔に共感した。朝倉書店「現代テスト理論」(3,600円+税)を紀伊国屋BookWebで注文。ここから突破したい。

12月3日(金) 晴れ

 帰路に夜空を見上げれば、オリオンとシリウスが美しい。おおいぬといったって、都会の夜空とおじさんの視力ではシリウスしか見えないが。

 吉祥寺よみた屋にて、仕事の帰り、日本古典文学大系「西鶴集」上・下(岩波書店)1,050円。美本。 先日ツタヤで目にしたベルトルッチ「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のビデオ。昔観たのは自由が丘にて、約20年前のことになる。そのときの映画の印象はそんなによくはなかったのだが、今ふと思うに、あの時の私の年齢は、映画のなかの若いおんなに近くて、そして今や私の年齢は、マーロンブランド扮する怪しげな中年男に近い。すると、今再見すれば、昔と違うものが見えてくるのではないかしら、ということを、仕事からの帰路、思ったりした。子供がいるので、気楽に家庭で観られる映画ではないけどネ。

 DVDオーサリングの機材搬入。担当Yマネージャーはにしきのあきらに似ていることに気付いてひとりで喜んでいた。もてるんだろうな。

12月4日(土) 晴れ とうちゃんのJ-POP 日記?

 永井荷風「花火・雨瀟瀟」(岩波文庫)、他440円。ツタヤで、モーニング娘、ACO「悦びに咲く花」、Kiroro 「好きな人」、宇多田ヒカル、ゆず「ゆずえん」、Neil Young "After the gold rush" などを借りまくって、親子で聴きまくった。J-POPの音づくりというのもいつの間にか進化しているのね。仕事柄、コンテンツを作るひとたちには共感を覚える。というわけで、とどめに「日経エンタテイメント 2000年1月号」(580円)も買って最近の流行を総復習。へんな休日であった。

12月5日(日) 曇り後晴れ

 午後は雨の予想だったが、結局降らなかった。吉祥寺、井の頭通り、東進ハイスクール並びの、「ブック・某」。典型的な新興系古書店だと思って、遠ざけていたが、仕事の終わりに寄ってみた。意外に堅実な店づくりに感心、感心。広い店内を少し酔って巡ったことである。記念に永瀬清子「あけがたにくる人よ」(思潮社、500円)を買っておいた。仕事の上で、慶応のS君、F君にお世話になった。

12月6日(月) 曇りと晴れ

 永井荷風「花火・雨瀟瀟」表題作読了。心に沁む。荷風の嘆きがいまようやくわかるようになったと書いたら不遜か?昨今の荷風の研究書〜川本三郎・江藤淳・吉野俊彦〜にも挑戦したくなってきた。

 世界史のM先生にお世話になった。夜半のFAXに応えてくださったことを大いに徳として称揚する私である。

12月7日(火) 晴れ

 夜更け、吉祥寺の夜空を見上げると、オリオン座、シリウス、プロキオンの冬の大三角形、右方双子座の近隣には微かに、昴がみえる。そしてさらに右には、輝く木星と火星?が並んでいる。すると土星はあの星かしら?今晩は冷えて風が冷たく、そのせいか東京のスモッグも吹き払われて、夜空が清澄であったことである。天の川も微かに判別できたヨ。

 永瀬清子の詩に涙が零れる。老いてなおあのように純な詩をかけるひととは!さてここから、わたしの思いは駆けてゆく。ヘーベル・ゲーテ・ホフマン・ホフマンスタールの「思いがけぬ再会」「ファルンの鉱山」。浦島太郎コンプレクス(と、勝手に命名する)。事態の本質に気付いたときは既に遅く、すべては移ろうているのに、自身は変わらぬままであり、郷里に於いて異邦人であるという。あるいは老いた女性が若き日の恋人を追慕する。恋人は夭逝し、あるいは氷に閉ざされて死してもなお若く美しい。女性的なものは時間を吸収し、成熟し、老い、萎びる。男性的なものは、不幸であり、熟せず、尖っていて、死に無力である。(つまり昨今のヒットで云えば「タイタニック」ということになる)

 「ある日踏切の向こうにきみがいて通り過ぎる汽車を待つ、遮断機が降りて振り向いたきみはもうおとなの顔をしてるだろう」と、かつて小椋桂は嘆いた。その伝でいえば、おなじ嘆きが、ふりむいた<世界で一番美しいあなた>の、老いて落莫した顔であるということだってありうる。すべてを振り捨てて生きてきたので、このような不幸な事態は実はなくて、すべては時とともに遠い彼方へ過ぎ去ってしまったのであるが。通勤途中、ふとでくわした初老の女性の横顔をみるにつけてこういう寂しく暗い想念もまた魂を過ぎるのである。

12月8日(水) 曇り

 寝不足で頭が重い。躁と鬱とが交差する。日経夕刊、川上弘美のエッセイひきつづき好調。今回は織田作之助の上手さを書く。毛布にくるまり古い小説に興じるヒロミさんを、正直可愛いと思ってしまう。

12月10日(金) 晴れ テスト理論の夜明け

 紀伊国屋から池田央「現代テスト理論」(朝倉書店、1994、3700円)が届いた。まこと我が蒙を恥じるばかりである。一読目からウロコが数枚落ちた。週末をかけて理論の一端を理解したいと思っている。他に和田秀樹「受験勉強入門」1050円。こちらは効率的なセンター試験対策とは何かを考えるために。多少参考になった。しかし断定的に書かれていることで誤解されると怖いこともいくつかあるようだ。

 A社によるOCR、XMLのプレゼンあり。やはりXMLからは目が離せない。タグ付きテキストによる世界記述という、考えようによってはシンプルな統合に憧れる一方で、閉ざされて流麗な世界(例えば Quark の版下のような)にこだわる自分もいる。

 永井荷風の随筆をぼちぼち読んでいる。それでもなお、「腕くらべ」「おかめ笹」の世界に入ろうとは思わない。高1の時、「ぼくとうきたん」(漢字入力面倒くさし)を読んでいたく感激したへんな少年は、当時鹿児島の古書店で買い求めた「永井荷風集」(新潮社)所収の「狐」には興趣を覚えたものの、他の情痴小説にはとてもついてゆけなかった。なにしろ、おんなには全く縁のないピュアな生活をしてたもんで(笑)。その時の不快な想いが今も残存していることを思うと、(実はね)、当時の自分を可愛いなって思ったりするんです。そんなことってみなさんはないですか?

 永瀬清子の詩を読む度に涙が零れる。若き日の詩「諸国の天女」はかつてこちらに引用させていただきました。詩人永瀬清子のサイトはこちらです。

12月11日(土) 快晴

 朝はいつも通り石神井公園の古書店。ヘーベル「ドイツ炉辺ばなし集」(岩波文庫)。「武田隣太郎・坂口安吾・織田作之助集」(新潮社)、川上弘美さんに薦められて早速「六白金星」を読んでみた。織田作之助を読むのは初めて。「「Jポップ」批評」(宝島社文庫)、昨今のJポップの状況を知るため。相変わらず支離滅裂の読書である。しめて530円位。夜は、確率分布の復習。広島のまるささんがHP広島発・波止からのカキかぶせ釣り入門を立ち上げた。東京のたろうさんがHP上でリンクをはってくださったので、これを機にリンク集を更新した。ご紹介文が未だ。すいません。

12月12日(日) 

 日経朝刊文化面、松浦寿輝「まぼろしの島への不思議な郷愁」、私の魂のなかの南島への憧れとおなじ感想が美しい文章で書いてあった。

 光が丘図書館にて、中川与一「天の夕顔前後」(古川書房)、著者89歳(1986年)の頃に刊行された回顧録である。高校2年の頃、鬼友Awaya君に奨められた読んだ「天の夕顔」(新潮文庫)の甘美で清らかな純愛の世界はこころに残ったものの、その純愛世界のいかがわしさもまた同時に感じ取っていたことである。この回想録を読むと、「天の夕顔」の主人公にはモデルになった男性がいて、その男性との間で発表後諍いがあったことがわかる。また、ヒロインの女性は80余歳まで長く生きたことも記されている。 この本を手に取ったのは、菅野昭正(昔から憧れていたひと)「永井荷風巡歴」(岩波書店)のそばにあったからで、目にした以上これもなにかの縁と思って借りだした訳だが、そんな風に手当たり次第借り出すことのできる図書館という存在も、なかなか貴重なのだなと再認識したことである。<世界図書館>、そんな概念が今晩吉祥寺の街を自転車で疾駆しながら、ふと脳裏に浮かんだ。今やインターネットで、特に英米圏の文学作品はいともたやすく原テキストが入手できる。とすれば、なにもわざわざ狭い書斎に訳書を並べる必要もないともいえる訳で、まるでカーネギーメロン大学の隣に住んでいるような、ありがたい身分であることだ。むしろ語学の重要性が増しているわけでこれは僕にはちと頭が痛い。他には、「茨木のり子詩集」(思潮社)。夕方は、吉祥寺ブック・ステーションにて、「永井荷風集」(新潮社、200円)。「腕くらべ」「おかめ笹」「すみだ川」「つゆのあとさき」などの代表作を収める。この古い文学全集は高校生の頃買ったのと同じ版。ま200円だからいいか。それと「現代数学小辞典」(講談社ブルーバックス、720円)。

 光が丘の銀杏並木はほとんど葉を落としていてなんだか寂しかった。図書館ではベートーベン「弦楽四重奏曲」7番・9番・11番を借りた。MDディスクを買った。長男とマンガを探して石神井の古書店3店を巡った。うさぎ専門店「空飛ぶうさぎ」にてうさぎを一緒にみてみた。5000円〜35000円が中心。だけど糞がくさいナ。 そんなかんだの半休日であった・・・。

12月14日(火) 曇り

 へんてこな日記も1年半を迎えた。この間、さまざまなひとたちと新しく巡り会うことができた。決まり切った日々の仕事の裏側に、本来の自分を表現する機会を得た。まずは奏功しているといってよかろう。

 昨夜、仕事中に突然想い出した小学1年の秋の遠足の想い出。厩舎の傍らに咲いていたリンドウの青い花が、それこそ突然想起されたのだった。稲垣足穂流にいえば、宇宙から飛来したニュートリノが大脳のとあるシナプスをちょこっと刺激したのかもしれない。そんな風に思うしかないほど突然に想起されたので、自分でも驚き、今自分のライフ・ストリームが淀んでいるのかしら、なんてベルグソンの説を想い出したりした。そこから、幼年の日川の土手で花を摘んだ日のことが想い出され・・・。

 プラトニック・ラブとは自己愛にあらずや?もとより自己充足の願望であれば性愛の必要もまたないのだなと思ったりする。一方、帰途の夜道で、ひょろひょろと燃えた流星を一瞬目撃している。それは夢かうつつか、それにしても一瞬の出来事だった。

12月15日(水) 曇り?

 湯島の東京Gホテルにてイベント開催のしごと。それを終えて浅草橋T社訪問。

12月16日(木) 晴れ

 吉祥寺外口書店にて、森田優三他「新統計概論」(日本評論社)、1500円。この本のでた後、例えばEXCELのように豊富な統計関数を持つアプリケーションが行き渡るようになっている。標準正規分布の確率密度も逐一表を参照しなくとも自動計算できるようになった。しかし統計の理論を学ぶことはとても大事だと思う。

 それから日経BPのホームページで、「日経エレクトロニクス」1年分購読申込をした。19,000円(税込)。この雑誌のアプローチはかなり速い。例えばBlueToothについて周りに尋ねても誰も知らないが、今週の「日経ビジネス」にてノキアやエリクソンのトップが云うとおり、このあたりが21世紀初頭の技術の標準になる可能性大である。

12月17日(金) 晴れ

 ツタヤにて、Misia「忘れない日々」Cocco「クムイウタ」は沖縄出身だから聴いてみよう。他にクラシックオムニバス1枚。

12月19日() 晴れ

 昨日は、井の頭公園の紅葉に目を奪われた。寝る前にネルヴァル「オーレリアあるいは夢と人生」(稲生永訳、中央公論社)を書棚から発掘して手にとってみた。この新集世界の文学の一冊は昭和49年に再版されたものだ。だから以来25年が経過していることになる。なのに、箱も本文も奇麗なままなのであった。この1854年頃に書かれた小説は、暫く闇に埋もれたのち、シュルレアリストによって再発見された。ネルヴァルの精神は狂気に侵されていたという。パトグラフィの研究の好餌になりそうだが、作品の構成はしっかりしている。プルーストが「失われた時を求めて」を書くにあたってこの作品を念頭においたという説もうなずける。それはさておき、25年の歳月なのであった。ひとは老い、ひとは変節し、かつての君はおなじ君でない。多くの親しいひととこの間に幽冥を分けた。なのに本は、かつてのまま生きているということ。ぼくはこの書物に嫉妬を覚える

 25年前の自分には想像もつかないことがひとつある。それは、ネルヴァルとほぼ同時代の江戸の戯作者にこのところなぜか惹かれているということだ。この顛末は詳しく書けない。だってまだ読んでないんだもん。井原西鶴や「浮世風呂」や「東道中膝栗毛」の作品世界に、じつはこのところ、なぜかすこし、憧れている。

12月21日(火) 晴れ

 WEBやBBSさらにはMAILを使った授業運営という、奇天烈なアイディアを思いつき、夜更けに勢い書くのである。奇天烈っていっても早稲田大学なら当たり前のこと、別に驚くことじゃないが、わたしのアイディアとは例えば小5のクラスでそれを実行するということ。授業の内容や担当として親に伝えたいこと、勉強のヒントをWEBに公開する。BBSでは親からさかんに意見の書き込みがある。匿名可能だ、厳しい意見がでるかも。欠席した子にはメールでフォローをしよう。授業のプリントはpdfで送信しよう。近くの子に持っていってもらったり郵送したりFAXしたりしなくてもいい。(そういえば昔教師をしてたころ、よくそんなことをしていたっけ) Pathware や項目応答理論やDVDコンテンツやら、技術の粋を投入して、しかしコストをかけず人間味あふれるクラス運営とは?矛盾する言いぐさだが、極めてローカルな営みをグローバルに実現してみたい。

12月24日(金) 晴れ

 日本古典文学大系「東道中膝栗毛」は吉祥寺外口書店にて800円。今日は、畳の張り替え。そして夕方から世田谷聖十字教会にてクリスマスミサに参列。クリスティアニティの懐旧に惹かれる想いと、醒めた懐疑心が併存した。行き帰りの電車のなかで統計学を学ぶ。年賀状作成。日経エレクトロニクス99/12/13号着。特集「Bluetoothケータイ・PCを席巻」。希望と絶望が入り交じる歳末の一日であった。

12月26日() 晴れ

 夕べ家に帰り着いたら、「日経エレクトロニクス」定期購読開始記念に、バックナンバー「PS2はトロイの木馬」、新年号「研究開発 再生への挑戦」の2冊が届いていた。急にエレクトロニクスだらけになって慌ただしいこと。風呂に入りながらまずPS2編を読んだ。

 今日は図書館で小野不由美「屍鬼」(上・下)(新潮社)、勝目梓「楽土」(祥伝社)「耽溺」(講談社)を借りた。このうち「楽土」読了。結構上質な作品に感心。(これ以上書けない)

12月28日() 晴れ 中年の鬱

 歳とってくると、楽しいこともなくなる。「愛からはるか遠く 離れて生きることが この世にあると想いもせず いられた自分が 懐かしい」(中島みゆき)。「もう過ぎてしまった / いま来てもつぐなえぬ / 一生は過ぎてしまったのに」(永瀬清子)。「ぼくはたしかに人生を無駄に過ごしてしまった・・・」(Nerval) 沈鬱な想いを払い切れぬ時間がある。例えば初恋のひとがいるとして、そのひとが46歳になったことに夜明けふときづくとする。夢のあとで、夢のなかで。(Faureのうたが流れる) 夜明けの瞼は闇のなかに開かれて閉じぬ。いや閉じたまま再び眠ろうとつとめるけれど寝付けない。それは人生の寂寥を感じるひとときだ。"O! God, Can I not save one from the pitiless wave? Is all that I see or seen / But a dream within a dream?"(Poe) ひとがとしをとるというのはかなしいことだ・・・。しかして実は私にとって「人生はなんと騒々しいのだらう」(Raforge) ということなのだが。※引用はすべてうろ覚えです。若いひと、といっても女の子じゃないヨ、KO のFくんやSくんの奮闘が清い希望になっている。それは、師弟というのでない、親子というのでない、恋愛関係というのでない、夫婦というのでない、Fraterniteというのでない、利害関係というのでない、桎梏を超えた関係性の可能なことがほのかに予感される、ある<希望の原理>だと、わたしはひそかに思うのであった。

12月31日() 晴れ 詩と真実

 昨夜、仕事納めのあと、会社近くの吉祥寺BookStation にてゲーテ「詩と真実」第4巻(小牧健夫訳、岩波文庫)150円。なぜか山崎氏による新訳よりも旧字旧仮名の小牧訳のほうに惹かれた。1900年代最後の数日、世間はいろいろと喧しい。エッカーマンとの対話のなかでゲーテはこう言っている。「今後人類の精神文化がいかに発達しようとも、四福音書に表された道義的世界秩序を超えることはないであろう」と。2000年代の御代は人類ももうすこし平和に、もう少し地球環境を保護し、もうすこし娯楽を離れて暮らさなくちゃいかんなア、と1999年の暮れも押し迫ったころ東洋の一市井の徒は思うのであった。

 石神井きさらぎ書房にて、柳田泉他編「座談会 明治文学史」、同「座談会 大正文学史」(岩波書店、昭和40年)1600円。午後から池袋に繰り出し、へんなメイクとぼっくり靴のギャルの波をかき分け進み、西武ブックセンターにて、石村園子「すぐわかる微分積分」(東京図書)2300円、他。ここ西武ブックセンターにくるとたくさんの素晴らしい本に囲まれていつも浄福を感じる。たかだか1万円か10万円かしらないが、それだけで浄福を感じるなんて、やっぱり本・読書は清い趣味だなあ。今日は、古書店・書店あわせて7店も巡ったことになる。茨木のり子「倚りかからずに」も、詩の本の店ですこし手に取って読んだ。

 今年1年のご愛読深謝します。みなさまよいお年をお迎えください。(完)

 

 

 

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