5月3日(晴れ

 XMLの夜明け。昨日は某社と感動的な打ち合わせ。たまたまVECTORを覗いたら、CSV2XMLという面白いソフトを見つけた。

 ローテクノロジーとハイテクノロジーの狭間で悪戦苦闘しているのが現状だ。FileMakerのデータをHTMLに加工するのに悪戦苦闘した。FileMakerのひとつのセル?内の改行の扱いは、HOME(&h0B)であることを発見して、アメリカ大陸を発見したコロンブスのようにうれしかった。ここを鍵にして、FileMakerのデータをHTML文書に加工したのである。

 雹が降ってみんなでびっくり。次男も被害?にあったそうな。

5月5日(晴れ リルケ再読ほか

 連休返上の仕事が続いている。昨日は別なトラブルもあって心身ともに参った。夜、酎ハイを飲んで寝床でうつらうつらしながら、辻邦生「薔薇の沈黙〜リルケ論の試み〜」(筑摩書房)を読む。リルケの詞章のひとつひとつが心に沁みこんでくる。流れ込んでくる。私は、深いところで癒されていた。

5月6日(晴れ 久世光彦

 昨日、吉祥寺の古書店で久世光彦の本を立ち読みしていたら無性に買って読みたくなった。表紙が汚れているわりに高いので、紀伊国屋で新刊を買うことに決め、アベックがぞろぞろと歩くロンロンの通りを抜けて東急デパートに向かった。ところが紀伊国屋にはお目当ての「泰西からの手紙」はなかったので、かわりに「怖い絵」(文春文庫)680円を買った。

 わたしは久世光彦が<好き>なのではない。いわば教室の隅の<魔少年>がそのまま老いたような彼に、怖れをもって惹かれているようなところがある。例えば西條八十「トミノの地獄」を巡るさまざまな変奏のように、ひとつの想念を繰り返し書いている。昨夜は「怖い絵」をざっと読んだが、「久世版イタ・セクスアリス」のような短編のひとつひとつには<死>と<没落>が色濃く滲んでいて、正直ちょっと気持ちが悪かった。

5月7日(晴れ 久世光彦再び

 とうとう、連休中は仕事に没頭した。つきあってくれたFくん、ありがとう。きっと夜明けは来るのさ、XMLという夜明けが。

 MLの整備をして、何人かの同窓生から感謝された。

 図書館で、山本夏彦・久世光彦「昭和恋々」(清流出版)。借り出すときに、「今もAAスクールにおられますか?」と声をかけられた。「ハイ」と答えるそつのなさは、地元のゆえだから。みあげると卒業生 I 君のお母様。N大理工学部をでて今は機械系メーカーにつとめる由。品のいい少し老けたお母さんをみて、幾分か彼の人生に役に立ったのかと思うと、少しばかりうれしい自分なのであった・・・。

 世に「幸福論」と題する本がある。ラッセルとかヒルティとか。ましかし、「人生の幸福とはなにかと考察するに、それは幸福に生きるということである」(ウィトゲンシュタイン)と喝破した哲人のように、結局はトートロジーなんだよね。ひとの幸福をうらやむのでなく、誇りを持って自分の人生を充実させることができるのならば、たとい陋巷に死するともたといひとに哀れまれる人生だろうとも、誇りさえ失わなければ幸福なんじゃないだろうか、と、ふと思う、この頃なのである。

5月10日(晴れ 自分という癒し

 いやあ、忙しいのなんの、この1ヶ月、ろくに休んでないよ。職場の電話が、いかに仕事の生産性を疎外するか、つくづく実感する今日この頃。はて、汗牛充棟やら明窓浄机やら晴耕雨読やら、中国の文化というのは、書物と切ってもきれない関係にあるなあと、つくづく思う。某大学のアメリカ人の先生と会話をする。僕はUSAへの敬意を表する。先生は、弁証法的でない日本文化の住み易さ・生き安さをいう。どちらも本当なんだろうな・・・。にしてもいとしいその先生なのである。

 ブラックバスが死んだ。忙しさに追われて、面倒をみなかった自分が歯がゆいのだった・・・。

5月12日(晴れ

 連休返上で取り組んできた、e-learning のサイトが無事立ち上がった!(ま、若干の不具合があるが、Win2000だってバグがいっぱいあるというじゃないですか。PS.comだってサーバーがダウンしたじゃないですか。Britanica.com だって数週間閉鎖を余儀なくされたじゃないですか)そんなことよりも、初日の夜、早速サポート1件目。大学生の女の子。技術的な不具合はともかく、TOEICの勉強のしかた、当e-learning のサイトの有効な活用法について熱心に聞かれ、ああそうか、このことこそが肝要なのだと、再確認した次第。このバランス(技術と教育の)を失ってはいけない。

5月14日(晴れ一時夕立

 昨日は、一橋如水会館にて、高校の同窓会総会。なりゆきで出席することになった。もっとも参加してよかったと思っている。どこか深いところで癒され、初心に還り、元気になっていると思う。二次会は銀座西、鹿児島料理の店、「いち・にい・さん」にて。黒豚しゃぶしゃぶ美味。このところ、同窓会活動でなにかと忙しく、またいろいろと頼りにされてうれしいやら大変やら。

 本日朝、石神井公園にて岩波日本思想体系「おもろさうし」500円。南島の古層文化をたぐる貴重な資料。午後は仕事。大学生相手にTOEIC講座の e-learningサイトの説明をした。ところで、吉祥寺の本屋で、新潮社の古い文学全集が100円均一でたくさん積んであった。(例の赤い本)こんな本に25年以上惹かれている、へんな自分であった。(明日何冊か見繕って買おうっと)

5月16日(曇り一時雨

 しっとりと柔らかい雨が降った。

5月18日(雨のち晴れ 懐かしい文藝

 稲垣足穂、ラフォルグ、ボードレール、ジャム、論語、王維、陶淵明、山口瞳。リルケ

5月20日(雨 eに疲れて

 eに疲れた・・・。はてeってなんの略だろう?積もりつもった雑用、面倒なサポート。

 今朝は、久方ぶりに映画音楽を聴いてみた。Bilitis。ピエール・ルイスの原作(角川文庫)。その昔、渋谷の東急名画座で観たっけ。約25年前。客席のまわりは若いOLばっかりだった。この映画の音楽が好きで、25年も諳んじていた。昨年の暮れだったか、ツタヤでCDみつけて借りてきた。その音楽を聴きながら、本棚の奥からシュトルムコレクションをひっぱりだした。8冊をパラフィン紙でくるんであるので、読めない(笑)。ま、読む必要もないのだ。背表紙を見てると、「の彼方より・聖ユルゲンにて」を読んだ若き日のことが思い出された。手元の古い手帖で調べてみた。買ったのは昭和47年6月3日とわかった。この本を、ぼくはやっと個室になったばかりの寮の一室で手に取ったのである。あの日、自分も父母も若く、恋人も若く、アイドルも若かった。五十嵐じゅん(中村雅俊の奥さん)はデビューの頃で、ぼくは平凡だったか明星だったかのグラビアでそのかわいらしさに感心したことがある。(その頃からアイドルおたくだっだのね) 初夏の宵、小さな窓辺の小さな机で、きれいな包装紙で★ひとつの薄い文庫にていねいにカバーをかけて、旧字旧かなの小説を丹念によんだっけ。

 単なる感傷だ。しかしそれにしても、なんと皆は若かったろう!自分も、弟も、父母も、おじさんおばさんたちも、友人たちも、郷里のこいびとも。ああ、あの時代は失われて、もう二度と還ることはない。あれから大勢のひとと別れて、もう二度と逢うこともない。あたりまえのことが悲しい。雨の朝。

5月22日(曇り

 からっと晴れないなあ。吉祥寺紀伊国屋書店にて、長男のためにNEW CROWN CDセット(TDK)9400円。中原中也の新編全集が店頭にあった。

5月23日(曇り

 教育における査定と評価ということを真剣に整理してみたい。MATRIXの随所で流れる映像、膨大なヴァーチャルな世界を記述するデータが、雨だれのように流れてゆく、あのシーン。そのように、学習を記録するデータは膨大だ。そのログのどこをどう分析して、どう活かすのか?どのようにして完全な個別学習のカリキュラムを提供するのか?どのようにして教育システムの妥当性を評価するのか?数学教育界のS先生小社訪問。かたや西新宿H社を訪問して、いくつか有益な示唆を得た。クライアントマシンに常駐するチューター。クライアントマシンに予め供給しておくコンテンツ。

 データベース教材の草分け、岡山吉備システムの学習サイトネット・キャンパスこちら

5月25日(晴れ

 ビッグコミックオリジナル弘兼憲二「黄昏流星群」、中年男女の恋愛にコンビニで涙を零した。こういういかがわしさの果ての純愛ってのに弱いの。陶淵明の詩に酔う宵。約1500年前のひとりの詩人になぜこうも愛しさを感じるのか?考えてみれば詩というものは不思議だ。東洋の文人の理想郷。晴耕雨読への憧れ。政治的挫折の果ての帰郷というテーマ。

5月27日(曇り後一時雨 なぜか中国

 明日のTOEICの試験を前にして、早朝から、STEP-UP英単語・熟語TOEICTEST(桐原書店)のCDを聴きまくった。また、5月29日号の日経ビジネスでも紹介された、http://www.globalenglish.com/ をオンラインで申し込み、45分にわたるチェックテストをオンラインで受験してみた。コンテンツ秀逸。学ぶところ多い。時間50円の受講料に加えて、(講義内容とは関係のない)電子メールの英文添削までやってくれるなんて、信じられないけど、受講生目標100万人ときけば頷けなくもない。なにしろ、実稼働時間単位で5000万円が入ることになるのだから。英語漬けのついでに、「マーキュリー・ライジング」のDVDをツタヤで借りて観た。ブルース・ウィリスの映画は何故か最後に泣いてしまう。子役の少年いとおしい。

 陶淵明の詩に酔う宵。政治的に挫折した詩人が、約1500年前郷里に隠棲し、晴耕雨読の日々をおくった。政治的に成功したひとの名はとうに朽ち果て、陶淵明や李白や杜甫や王維の名が今に伝わる。ホラチウスの謂いもまんざら嘘ではない。幸福とは幸福に生きること、幸福に生きるとは希望の原理を見いだす能力だと、朝方妻に話をしたら一笑された。

 そういう連想で、論語をひっぱりだして読んでみると、東洋の徳のありかたがつくづく懐かしい。「不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。」「富というものが追求してもよいなら、鞭をとる露払い(のような賤しい役目)でも私は勤めようが、もし追求すべきでないなら、私の好きな生活に向かおう。」(述而第七)「人知らずして慍みず、亦た君子ならずや」(学而編)

5月28日(曇り

 駒場のT大にて、TOEIC受験。まわりは若い女の子が多かった。引き続き、7月の試験もインターネットで申し込んでおいた。

 吉祥寺ルーエにて、「ギャスケル短編集」(岩波文庫)735円。たろうさんのサイトや他のサイトで盛り上がっているので、久しぶりに新刊を買った。上品なオフセット印刷には正直言うとなじめない。興味深いのは、訳者の松岡光治氏が、ギャスケルのHPを運用しておられることである。解説にもそのことが言及してある。本国のギャスケル研究のMLにも言及しておられる。私は、「文庫本大好き−岩波文庫コレクション」のHPのリンクから松岡氏のHPを見て、それからこの本を買って、松岡氏の解説でこのHPを再び知ったのだが、順序がいつもと全く逆になっていることが面白かった。

 これからNHK教育で今晩放映のベルトルッチ「暗殺の森」を録画する予定だ。詩人野口米次郎の息子、イサム・ノグチのことが気になっている。ドウス昌代氏の書いた評伝を吉祥寺弘栄堂で探したが見つからなかった。日経日曜版の見開き2頁の特集は、今日が2回目である。

5月30日(晴れ

 季節は一番美しい時分だというのに、些事が累積して気が晴れない。

 「ギャスケル短編集」の先頭の3作を読んだ。当時19世紀中頃の、社会の変動やイギリスの宗教など作品の背景をおさえる必要を痛感する。久しぶりに英文学を読むと、聖書の引用が多いのに驚く。「異父兄弟」も「ジョン・ミドルトンの心」も、私の予期しなかった事件がおきて作品は終結し、そのことが残されたものの罪を贖う。「婆やの話」は、「嵐が丘」と同じ古典的な枠物語だ。

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