12月1日(火)

 城山三郎「落日燃ゆ」(新潮文庫)読書中。広田弘毅の生涯を描く。つげ忠男「釣りに行く日」(晶文社)紀伊国屋から届く。あっという間にこのひとの本を3,100円ぶんも買ってしまった。昨年の夏、妻の実家の近くのキオスクで買った釣り雑誌に掲載されていた、飄々として味わいのあるマンガを読みたいだけなのだが・・・。この本は、巻頭に「桃色遊戯」という不思議な釣りマンガが収録されていて、残りは釣りに関するエッセイが中心である。

12月5日(

 このところ帰りが遅い。寝床で「落日燃ゆ」を少し読んで、岩波文庫のファンの方のホームページの日記を読んで眠る。ひと頃の小春日和がうそのように、冷たい雨が降るぐずついた天気だ。このまま冬になるのかと思うと沈鬱な気分になる。次男が風邪をひいて学校を休んだ。前に買っておいた新潮文芸カセット「風の又三郎」(市川悦子朗読)を床で聴いてたそうだ。この今も熱心に聞き入っている。というわけで、紀伊国屋BookWebにて、「杜子春・蜘蛛の糸・トロッコ」(加藤武朗読)を注文した。そのあと、気になって新潮社のホームページを見てみたら、今やCD(CD-EXTRA)のシリーズが主流になっているようだ。定価はカセット版が1600円、CD(CD-EXTRA)版が2000円。ちょっと後悔、けどまあいいか。BookWebでは、あわせて稲田太作「職業適性自己診断テスト」(産心社)も注文しておいた。この手のテストを研究したい。

 日経の本日朝刊の小さなコラム。高円寺が若いひとに人気があるとか。「肩の力が抜けた緩やかさがすべてに行き渡り、だれもが自分の好きなように振る舞える」スカスカな感じがいいのだとか。確かにサンダルでママチャリをこいで、ふらりふらりと点在する古本屋を巡るのが似合う町だよね。沖縄民謡の流れる「球陽書房」では無口な店主のそばでおおきな白猫がこれまた憂鬱そうに眠っていたっけ。17年前に。

 雨の降りそぼき風の吹く日に自転車をこぐのも億劫なのでバスで通勤。吉祥寺東映のそばの古本屋で岩波新書の出物に逢う。井伏鱒二「川釣り」富士正晴「中国の隠者−乱世と知識人−」高橋英夫「西行」、3冊で550円。どれもきれいな本でとってもハッピイな気分になれた。

12月6日(

 という訳で、高円寺に自転車旅行をしてきた。この晴れがましい小旅行を達成して、自分の領土が一段と広くなって悦に入っている皇帝のような気分に満足している。ま、晩秋の寂しいサイクリングであったにせよ。

 環八から旧早稲田通りを一本のわかりやすい行程だが、行きはそれでも道に迷った。昨日あたりから一斉に散り始めた銀杏。至るところで大きな銀杏に遭遇ししばし仰ぎ見る。もちろん歩道を進むのだが、歩行者もいてぐんぐん飛ばすという訳にいかない。

 最初は出久根達郎の経営する「芳雅堂書店」。もちろん初めて。閉ざされたガラス戸には「しばらく休ませていただきます」の張り紙。さい先悪し。その先をしばらく進むと、ヤングがぞろぞろと南に歩いてる通りがある。ここが駅へとつながる商店街と思い、右折して南下。しばらくいくと「佐藤書店」に出くわす。はじめはちょっと分からなかったが、ここには昭和56年頃、2回ほど訪れたことがある。懐かしいな。店内は十年一日の如し。庄野潤三「夕べの雲」(300円)、岩波文庫「戦争論(中)(下)」(各250円)など見つけるが興が乗らずそのまま店を出る。しばらく南に進むと、中央線の高架にぶつかる。ガード下の「球陽書房分店」「高円寺書房」「都丸書店」「球陽書房本店」軒並み休みなり。残念。あの当時の白い猫ちゃんの娘か孫かに逢えるかなと思ってたのに・・・。「青木書店」の店主夫婦健在であった。とてもうれしい。御歳六十代半ばといったところか。店の中の石油ストーブの匂いが懐かしい。南下してPAL商店街に。「大石書店」も休みなり。ああ。本の扱いがとても丁寧ないい店であったが。「かんたんむ」コミックを多く扱う本屋。なぜか店の名前が懐かしい。なぜだろう?さらに南に。「西村屋書店」、その昔「稲垣足穂大全第5巻」を見つけたけど買えなかったな。狭い店なので、高い書棚を見上げるようにして本を見る。南に進み、「勝文堂書店」、一見コミック系なのだが、まずまずの質。しばらく南下して商店街の終わりにいきついた。ここまで収穫なし。というか興が乗らないのでしょうがないのだが。帰路は同じコースを、こんどは迷わずに進んだ。ゆっくりと。PAL商店街「湘南堂書店」にて、藤堂明保編「小学生の漢字早おぼえ字典」購入。小生は石井方式にて漢字に開眼した人間なので、学燈社版の「石井方式漢字の覚え方」を探したがなし。この藤堂先生の本なかなかに興味深し。息子への漢字指導の参考にしたい。商店街を歩くアベックもまあまあ品がいい感じだ。可愛い子も多い。高円寺って中央線って、なんだか懐かしいね。帰路、八成小学校付近で、コミック系古書店「ゴリラ」にて、杉山隆男「兵士に聞け」(新潮文庫)、多胡輝「頭の体操第1集」計500円也。

 夕方、WOWWOWの無料放送で、広末涼子主演の「20世紀ノスタルジア」観る。ムービーinムービー、アイドル、東京観光、こういった仕掛けは好き。ベルトルッチ「暗殺のオペラ」の、あのヴィットリオ・ストラーロのカメラの映像美。例えばそういった35mmフィルムの映像の究極に、20世紀の映画は早く到達したのだが。今、デジタルの美名のもとで、ぼくたちが観るのはビデオノイズに溢れた走査線の織りなす映像だ。それを逆手にとって監督氏は、哀切極まりないビデオを撮った。ビデオのノイズ、光の残映。でも悲しみにくれずに、広末はビデオカメラを回し続ける。健気でいとおしい映画だと思った。息子には評判が悪かったが。まだアイドルには興味がないのか。

 夕食後はやく寝て、深夜に起き出して、今こうやって入力してる。「自己憐憫」「説教」「詠嘆的な懐旧趣味」これらが団塊世代の悪徳なのだそうだ。(「兵士に聞け」解説の関川夏央の文から)まるで自分のホームページのようだと自嘲する。まあそうなのだが、そうなんだけど、このホームページでぼくは過去の思い出のひとつひとつを、精算しているような気もするのだ。青春から、成熟と老いへのゆるやかな滑り落ちへと。

 今日はほんとに天気が良かった・・・・。

12月12日(

 何の変哲もないサボテンのようだが、ちょっといわれがある。とうちゃんの会社のそば、五日市街道からすこし奥に入ったところの民家の生け垣の前に、こんなサボテンがたくさん並べてあった。よりどりみどり、どれもみな100円から200円くらいである。脇に紙箱がおいてあって、好きなサボテンを選んで代金を入れるようになってるのだ。丹精込めて栽培しているご主人の人柄が偲ばれる。そういえば、なくなった親父もサボテンが好きだったな。なんて、家への帰路自転車の荷台にサボテンをのせて走りながら、しみじみと想い出していた。

 先週太宰久雄氏がなくなられたが、一昨日は映画監督山下耕作氏が逝去された。追悼特集として「関の弥太ッぺ」「博奕打ち・総長賭博」を放映するような奇特なテレビ局はなかった。作品一覧はこちら(Y.Nomura氏作成)を。ここ「日本映画データベース」は今日の日経でも紹介されていた。

12月13日(

 石神井公園の草思堂(?)にて辻井喬「深夜の散歩」(新潮社)450円也。いつもながら箱つき・帯付きのきれいな本がとても安くてうれしい。って喜んで帰ったら、家に文庫版があった(泣)。でもまあいいか。文庫では流し読みした程度だし。明後日から日経朝刊で連載小説も始まるし、このところ世評も高いひとだから、ちょっとていねいに読んでみよう。なにをかくそう、とうちゃんは上京した頃、西武デパートの「ぽえむ・ぱろうる」や「ぽると・ぱろうる」に心から感動した人間なのだ。詩の専門店をデパートにおくような文人経営者がいるなんて、と素直にうれしく思ったのものだ。「落日燃ゆ」読了。誠実な評伝である。阿川弘之の提督三部作のうち「井上成美」「米内光政」大岡昇平「長い旅」(以上すべて新潮文庫)などもかつて一気に読了した本であるが、戦前戦中を戦争抑止を貫いて生きた政治家・軍人のことをもっと調べてみたい。

 ジョディ・フォスター主演「コンタクト」を家族でビデオで観た。秀作だと思った。もっともとうちゃんはこの手の映画には素直に感動してしまう人間なのだが・・・。地球外生命体とのコンタクトは果たして現実なのか、ジョディの妄想(臨死体験)のようなものなのか、ついにわからずじまいである。これだけでも物語のフェアさに感心するところなのだが、その体験(幻想?)のためにジョディは査問会のごときものにおいて政治的に引きずり回されるはめになる。一見冗長ともとれるこのエピローグに、苦いロマン主義を感じてじ〜んときてしまった。異星での幻視体験は神曲いらいお定まりの光の舞いであるが、なき父の姿を借りた異星人との交感は、沖縄めく透き通った青い水とサンゴめく白い砂浜においてであった。群青の透明な空には未知の星座が輝き・・・。観た後に、図書館にゆきカール・セーガンの原著をぱらぱらめくると映画とずいぶん違うようであるが、でもこのビデオでぼくの心は癒されて、少し優しい気持ちになれたのだ。銀杏の降りしきる古い校庭にて・・・・・。

12月16日(水)

 インターネットにも飽きてきた。人間はなんにでも飽きるものらしい。別に悪いことではないが・・・・。予測しない出会いが初期のころには新鮮だった。今でもそういう出会いはふんだんにあるのだが、それでも人間は飽きるものらしい。

 複数のサーチエンジンから最適のサーチ結果を返すmetasearch。最近は日本でもいくつかのサービスがあるが、老舗SavoySearchを久しぶりに訪れてみた。以前はとある大学の非営利サービスだったのだが、今は独立して.comになってる。試みに"Pete Sinfield"でNo.1ヒットのサイトを表敬訪問。歌手Celine Dionのホームページのようだ。RealAudioで曲のさわりを聴いて感動した。

He can heal the world
Of hearts in need of care
Shine a light ahead
When the next step is unclear

King CrimsonのFirstの表題曲を聴いたのは中3の時(昭和46年)。同じ頃、郷里の繁華街のはずれの小さなレコード屋でシングル盤を買ったっけ。(今年の夏、そのすぐそばの釣具店でオキアミを買ったよ) その時以来のPeter Sinfield兄さんとのつき合いだ。月日とセーヌ川は流れてもこのひとへの愛は変わらぬ。兄さんが今は異郷の地で、それでも作詞家として活躍してることを本当に懐かしくうれしく思うのでした。にいちゃん、ぼくは今でも兄ちゃんが好きだよ。

12月19日(

 つげ忠男「釣りに行く日」読了。毎晩、寝床でちょっとずつ読んだ。この兄弟はほんとに文章が上手い。ある晩などは、開高健の「完本 私の釣魚大全」(文芸春秋)を読んだときのような、不思議な陶酔すら覚えた。開高健の稠密さと磊落さを織り交ぜた名文なら、文章に酔うこともうなずける。だけど、つげ忠男の文章は、いってしまえばなんの変哲もない文章なのだ。ひとつひとつの文章は。そこが不思議なのだ。

 King Crimson のElephant Talk 再訪。久しぶり。Discographyやもろもろのデータ量に圧倒される。ファン必見のサイトだな。Robert Fripp のギターのコードまで載ってるぞ。

 IMDb ( Internet Movie Database )初めて訪れる。これまた緻密かつ広大なデータベースに感動。はりめぐらされたハイパーリンク、女優から出演映画に、そこから監督のFilmograpyに、脇役の出演映画に。めくるめくジャンプ。ハイパーリンクというWWWの便利さを実感するサイトである。試みにJodie Fosterから「コンタクト」に入り、Vancouverの読者(?)のコメントを読む。90年代の「2001(宇宙の旅)」だってほめてる。共感を覚えてうれしくなった。

 ASCII新年号、Linux(CD-ROMからブートできるんだって)のおまけつき。これから買いに行こう。かの鈴木志郎康先生などは、Windows98, Mac OS8.5, Be OS, UNIX と4つのOSにトライされている。偉いもんだ。

12月20日(

 仕事の谷間である。とうちゃんの会社は年末まで忙しい。未だ年内のいくつかの仕事をかかえている。朝、F小学校そばの熱帯魚ショップに冷凍赤虫を買いに行く。今日もまた快晴である。神様に感謝したいくらい・・・。風は強い。夕方、近くの図書館へ散歩。久世光彦「卑弥呼」(読売新聞社)、高村薫「神の火」(新潮社)の2冊借りる。まあ、歳末にぼちぼち読もう。古い校庭にて、夕日を眺める。今年ももう終わりなのかと、しみじみとした感傷に浸った。先週来たときは未だ銀杏の葉が降りしきっていたが、今日はもう裸で、枝は高く聳えていて、寒々とした寂寥を覚える。

 ASCII新年号付録のLinux Lite無事起動できた。もっともマルチユーザー、マルチスクリーンまで確かめただけ。

 昨晩借りた「タイタニック」を断続的に観た。子供2人と一緒に。妻が体調を崩して寝込んでいるので、家事をやりながらの「ながら観」である。上巻は、だから、かたわら家事をしながら、インターネットで「タイタニック」関連のサイトで若いひとの意見を読んだりしながらの、散漫な視聴となってしまった。予め禁じられた悲恋。生きのびた老女が、サルベージの学者たちに、語りかける回想シーン(つまり本編)と、現在が交錯する。典型的な「枠物語(Frame Story)」である。こうした物語の結構は素直に許せてしまう。老婆が若き日の恋人を追想する愛というテーマのシュトルムの「聖ユルゲンにて」(岩波文庫)、ヘーベル・ゲーテ・ホフマン・ホフマンスタール競作(!)の「ファルンの鉱山」などを想い出した。さて、ビデオの下巻はどうだったか?

 結論・・・。とうちゃんは声を押し殺して子供に気づかれないように何度か号泣したのだった。結部、生き延びたお嬢さんは、80年後に回想する。「(私たちは生き残ったけれど)ついに神の救いはなかったのです・・・云々」。幻のダイヤをに捧げるくだり、楽屋落ちのようであるけど、そのあとエピローグにて、主人公ふたりが花嫁花婿として祝福を受けるシーン、観客へのサービスということもあるのだろう、映画は娯楽なのだから。けれど、とうちゃんにはこう思えた、「一生秘めていた物語を他者に語りつくすことで、老女は歳月を経て彼女自身の和解と救済を得たのだろう。」そんな思いにかられてふたりの美男美女の抱擁を見つめるのだった。他にもすばらしいシーン、すばらしい映像が随所にあった。船底にて恋人を助けようとする女に迫り来るの水は、なぜか甘美で透明で、妙にエロティックな情感を感じた。

 この水の演出は私に、昔観たミア・ファーロウハリケーンを想い出させた。あのときの水はすべてを襲い、ふたりの恋人を排斥すしようとするすべての世俗のしがらみを蕩尽してしまう(例えば純朴な宣教師も水に呑まれてしまう)が、今回の水は最後はいとしい男を水底にゆるやかにひきずりこんでしまう。そこにこの映画の、James Cameronの、ニヒリズムを感じたのであった。関連情報はこちらを。

(水のゆるやかな侵犯、エピローグにて老女の死を暗示する若き恋人との抱擁のシーンに関して、キューブリック「シャイニング」との関連を指摘する重要な示唆が、sonetの映画掲示板にて指摘されている。敢えて特記する次第。)

12月23日(

 全国模試の日で早朝から出勤である。昨晩は忘年会で夕方から吉祥寺に出勤である。昨日も快適なSOHOでファックス送ったり、インターネットで企画書をアップしたり忙しかった。おじさんは時間が欲しいよ。「タイタニック」ショックからようやく抜け出せた。それでもふたりの美男美女が時折脳裏をよぎる。T2の少年俳優もいとおしかった自分は、ひょっとしてJ.Cameronと同じくその気があるのかもしれない。昭和52年頃、渋谷の三省堂(東急プラザの上の階)で、とうちゃんはいじらしい美少年に出会ったことがある。そのときの胸のときめきを今ここに告白してしまう。

 晴山陽一「英単語速修術」(ちくま新書)、研究社バーチャル予備校編君の運命を変える入試英文速読王伝説」購入。後書のおおげさな書名は、副題もあわせて入力したことにもよるが、それにしても吉祥寺パルコのブックセンターで久しぶりに学参コーナーを眺めると、随分おおげさな書名が多い。あきれるほどに。一度書名やコンセプトを2次元のマップにまとめてみようかと思うくらい、多様な参考書が絢爛豪華たる背表紙を誇っていたことだ。「英単語速修術」のほうは朝方職場で速読してしまった。企画の参考になる本である。近く英単語や英文速読に関する学習法やアイディアをこのホームページにまとめてみよう。

 帰りはいつの間にか小雨がぱらついていた。どうりで春の初めのようになま暖かくノスタルジックな感じがしてたなあと、妙に感心しつつ妙に心優しくなって、石神井草思堂に向かう。ここでは気になっていた「Photo Shop4.0J ロゴデザイン」(MdN)(税込3990円のところCD付で1200円)やブリア・サヴァラン「美味礼讃」(上・下、岩波文庫)400円を求めた。ついでに店頭無料本から富士ゼロックス編「オブジェクト指向への招待」(啓学出版、タダ)を拾って帰る。もうかったぜ。

12月24日(木)

 クリスマスイブ。仕事が忙しい。

 孟子の「君子の三楽」。ひとつ家族みんなが健康に暮らしていること。ふたつお天道様にそむかない暮らしをしてること。みっつ、天下の英才を集めてこれに教育を施すこと。おお、とうちゃんの暮らしはみっつとも合致するぞ!特に3番目なんかぴったりじゃないか。これがみっつの楽しみだなんて孟子様はなんて慎ましいんだろうと、その深甚なる徳につくづく感心するのだ。(かいつまんでいえば、家族の健康、道徳的生活、後世への教育事業、ということになるか。「君子庖中を遠ざく」だってもともとは男女差別のプロバガンダじゃないんだよ。殺傷を悲しむこころ、生き物を殺してまで生き延びていたくないよ〜という孟子の無差別平和主義からきてるのだって、知ってた?20世紀も終わりになって、実は孟子や墨子のことをていねいに再評価する時代なのかもしれないと、とうちゃんは酔っぱらって思うのだが。)

 さて別に、「人生の三災」(出典不明)。ひとつ老いて子に先立たれること、ふたつ中年にして連れ合いに先立たれること、この2つはなるほどと頷ける。でも3番目はなんだ。それはね、幼くして志を得ること、だって。僕はこの3番目の災いの本当の意味を知りたくて時折本屋や図書館で故事成句辞典を立ち読みするのだが的を得ない。ひょっとして自分の考えているままの意味だとしたら、それはなんと怖い災いだろう、と。中島敦「山月記」(新潮文庫、筑摩文庫他)。山月記の種本は唐代の伝奇小説だ。「山月記」において中島敦が自身の創作の魔との葛藤を描いたのに対し、種本は原始的な動物変形譚だと誰もが思うだろう。ところが予想に反して種本自体も近代の病との葛藤に嘆く「実存的な」物語なのだ。岩波文庫「唐宋伝奇集」を読んでそう思ったのももう5年前になる。

 

12月25日(金)

 朝のテレビ、なにかの番組のBGMに「タイタニック」の音楽が流れていた。おうそういえば主題歌は誰が歌ってるんだろう?不明を恥じて早速IMDbで調べた。サウンドトラックの販売は、IMDbからAmazon.comへジャンプする。おうなんと、歌ってるのはCeline Dionだそうだ。偶然って不思議だなって朝から感動した。(このくだり、12月16日の日記をご覧ください)

12月26日(土)

 今日から冬休みである。息子もベネッセの通信教育に取り組んでいる。朝すこし勉強を教えて出社した。漢字が嫌いな息子なのでどうにかして漢字を好きにさせたい。今日は、中学1年の頃使った石井勲「石井方式漢字の覚え方」(学燈社)を紀伊国屋のBookWebで注文しておいた。ぼくはこの本で漢字に開眼したので、いわば恩師ともいうべき本である。銭・賤・浅・践・餞・箋・桟・・・・。小学校の先生たちはどうしてこんな合理的な教え方をしなかったのだろうと、当時不思議に思ったものだった。教育漢字・常用漢字・常用漢字以外の漢字と、カテゴリーにわけることがかえって漢字教育を狭隘なものにしている可能性もあるのだ。もっとも、戦後新字を作る際にかなり恣意的な簡略化が行われているので、字体に合性のないのも事実なのだが。旧字・旧かなの本を読むとなぜかほっとするのはなぜだろうねえ。この本は塾教師を始めた頃、2冊目を買い求めたことがあるので、都合3冊目の購入ということになる。2冊目は実家に眠っているはずだ。絶版にならないのがうれしい。この本を紹介してくださった中1時代の国語の恩師、西亮一先生、お元気ですか?

本が届いたら、先に買った「藤堂方式」と比べるつもりである。

 高校生を集めての新企画・新制作の勉強会にモニターとして参加した高校生たち。ぼくは高校生が好きだ・・・・・。純粋で傷つきやすく、かつ残酷であることが。なんでも思うことをいってほしいと思う。ぼくは全体に若いひとも老いたひとも好きだ。

12月27日(日)

 新聞や雑誌で、今年の文壇やミステリーの回顧をさかんにみる。純文学にせよミステリーにせよほとんど読んでないのに改めて驚く。もっとも卑下しているのでもなく高踏を気取るのでもない。例えば今朝観たNHK総合「特集小さな旅」。痴呆症になってしまった元銀行マンの夫と、40歳になる息子との3人で地方の分校を巡る旅をたのしむ老婦人の、ささやかな旅。そこから生まれた心温まる交流を紹介していた。雪まじりの雨がしょぼしょぼと降る福島県の田舎の小学校の校庭で、コンビニの弁当を3人で食べながらのこと。普段笑うことのない夫がみせる微笑みに、幸せを表現できない夫のたましいの奥の幸せを実感したのだと老婦人は語る。うまく書けないが、ぼくの読書体験というものも、ささやかでいいから自分の流儀でありたいと思うだけだ。

「この12月は、各メディアが今年の収穫とか何とかいって、名前をあげつらっているのを見ると、あたかも表現が一元的な価値で計れるような錯覚を強いられて、気持ち悪くなってくる。せめて自分の表現はできるだけ風に曝して気持ちよいものにしたい、というのがわたしの願い。」(鈴木志郎康「曲腰徒歩日記 98年12月より引用)※色付け小生

 忙しい歳末の日々。先日の「タイタニック」体験で想い出したシュトルム「聖ユルゲンにて」(国松孝二訳、岩波文庫)を書棚から発掘し少し読む。「この年月のあいだ、わたしは自分の過去のことに就いては、一言も口にしたことがありませんでした。はじめは、年が若くて、一番神聖なことを言い出すのが気恥ずかしかったからですし、後になっては、多分無意識のうちに、心の葛藤を隠しておきたかったからでしょう。でもこのときは、突然一切のことを包まず打ち明けずにはいられなくなりました・・・・」 物語を他者に語ること、それが癒されぬ罪からの「ゆるし」と救済をもたらすこと。この「枠」が予め開示され、最後に円環が閉じるからこそ(幻の宝石をかつての恋人の眠る冷たいに捧げる行為、大団円のレオナルドとケイトの祝福を浴びた抱擁シーン)、ぼくは「タイタニック」のすべてを許せてしまう。

 忙しい歳末の日々。松枝茂夫・和田武司訳注「陶淵明全集」(上・下巻、岩波文庫)で心が洗われた。東洋的な文人の理想。晴耕雨読・明窓浄机のユートピア願望。

12月28日(月)

 恋する部品製作所、これは村田製作所の広告のコピーである。ディスプレイに向かう若い女性のいささか疲れた真剣な眼差しを見つめる電子部品の恋心だとか。さてもこんなことを枕にするのも、日経新聞詩壇回顧のなかに、「液晶空間」だのわけもわからぬ言葉を多用しながらネットワークやコンピュータに疎外された現代の情況を憂う詩の多いことを論者がコメントしていたのがかなり気になったからだ。柄谷行人のある時期の論文もそうだが、数学や理科の用語は正確にまぎれなく使って欲しい。その用語の全貌を正しく理解していないのであれば、敢えて使わないことだ。技術音痴では話にならぬ。技術と格闘する気のないのならば、技術にふれない方がいい。と辛口の意見をいうのも、僕は詩人が好きだからなのだ。「芸術と技術」という岩波新書はL.マンフォードが書いた。芸という字は旧字「藝」のほうが本質を表している。「褻」という字とどうちがうのか?

 この一瞬。秘められた想い。禁じられた恋心。制御と贈与。老賢者と幼年期の美学。「藝術は幼心の完成」(稲垣足穂)、・・・。ああ私は疲れた。ぼくは自分自身を救済しよう、・・・・。

 白洲正子女史逝去の報に接す。ご冥福をお祈りする。

12月30日(水)

 洋画のデータベース、全洋画オンライン。つまりIMDbの日本語版である。例えば「砂のミラージュ」などのように原題のわからない洋画を調べるには便利である。

12月31日(木)

 ようやく休みが取れた。年賀状つくりにいそしむ。昼から散歩。PC-DEPOTでは中古のPowerBook G3が14万円たらず。これがあれば仕事がはかどるのになあ。石神井公園の古本屋を周遊。コミック系のMICにはみるべきものなし。きさらぎ書房お休み。草思堂へ向かう。数年前不慮の事故で失った袁枚「随園食単」(青木正児訳注、岩波文庫)、それから西垣通「デジタル・ナルシス」(岩波書店)、D・ランセ「十九世紀フランス詩」(文庫クセジュ)、写真集「昭和文学作家史」(毎日新聞社)、しめて2300円は安いなり。「随園食単」中華料理の総覧ともいうべき本。不思議な食材のいろいろに中国人の食の想像力を思う。「デジタル・ナルシス」奇書というべし。「十九世紀フランス詩」上下段に原詩と訳詩を載せているのでわかりやすい。「昭和文学作家史」はふんだんな写真が楽しめるので買っておいた。

 新潮カセット「杜子春・蜘蛛の糸・トロッコ」(加藤武朗読)一昨日やっと届いた。早速家族で聴いているところ。朗読を聴くというのもけっこういいですよ。本で読むのとは違い、飛ばし読みしたりせずに原文と同じスピードで頭に入ってゆく。物語の進行は朗読者の音読のそれとシンクロしている。これはこれで正統的な読書の一形態かとも思うのである。

 

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