10月2日(土) 曇り 

 吉祥寺さかえ書房にて、グレゴリー・ベイトソン「精神と自然」(佐藤良明訳、思索社)1600円。昨夜少し読んだが酔った頭ではちと難しい。文中引用されてるキーツの詩「ギリシャの壺への頌歌」に感動したりした。イギリスロマン派について復習してみたいと思ったりした。ベイトソン「天使のおそれ」は、いまのところ吉祥寺の古書店ではみつからない。(全店隅々探したわけではないけど)

 このところ、古書店でもなぜか数学や自然科学の書棚を眺めることが多い。生物学や精神医学や数学の本がなぜか新鮮だ。もっとも自然科学を玩ぶことは厳に戒めたいと思っていて、なるべく数式と格闘しようと勉めている。理系の方からみれば笑止千万かもしれないが、25年前にカリキュラムの関係で中断したっきりの数学 IIIの微分積分や行列をちまちま勉強しているのもそうした訳だ。生涯一書生、そんな風に開き直ってもいいのかしら、と、ふと思ったりする。「40歳を過ぎたら自分の好きなことをしよう」みたいな本が、ビジネス書の棚に平積みになっていたりしてパラパラめくったり、「あなたにもできる研究生活」といったような本を立ち読みしたりすると、人生の後半、仕事の他にもそうした領域を持とうかしら、と思うのであった。インターネットのお陰で情報の World-wide な収集や情報の発信が可能になった。これは5年前には考えられなかったことだ。

 今朝の日経朝刊の記事。メルセンヌ素数や双子素数といった、数学の未解決の難問について、WWWで繋がったパソコンのネットワークが近年めざましい活躍をしていると。ちなみにメルセンヌ素数であるが、手元の岩波数学辞典(第2版、1968)には、「 p=2^e-1」(e は素数)、第2版当時までに23個みつかっている、とある。今朝の日経をみると、今回38番目のメルセンヌ素数(2の6972593乗−1)を発見したのは平凡なパソコンである。最近の数学上の大発見に貢献しているのは、スーパーコンピュータではなく、こうしたパソコンの World-wide なネットワークだということだ。興味がある方は、http://www.mersenne.org/prime.htmへどうぞ。数学上の大発見にはアメリカの財団から数万ドルの賞金もでるそうだから、スクリーンセーバーをかけるよりいいのでは?

 近くのPC Depot で内蔵の56kモデムを買った。が、うまく接続できない。しかたなく元のモデムに戻した。

10月3日(日) 曇り

 自宅近くの倉庫で火事。現場をみにゆく。危機の際に危険を覚悟で働く男たちの姿に感心してしまう。ま結局はヤジ馬ということになるのだが、集まっている近所のひとたちにも男が多い。男ってこういう、破壊と創造というか、危機と隣り合わせの美学というか、そんなものに弱いのね。以前田辺聖子のエッセイにも日がな一日工事現場を眺めては飽きない男たちをからかった文があったけど、実はぼくにもそんな性分はある。アランの幸福論だったかに、「建設することよりも破壊することの深い喜び」という一節があったと思う。もちろん社会生活を営んでまっとうな暮らしをしている以上、この欲望は表に出すことはできない。深く禁じられている。そこでだ。荒れ狂う破壊と破滅に対して、身を挺して「創造」というか日常の秩序へ戻そうとする男たち〜すなわち消防士〜の行動に男たちは屈折したあつい眼差しを注ぐのだろう。「嵐ノ夜、岬ニ立ッテ、沖ニ沈ム船ヲ眺メルコトハ愉シイ。」このラテン語のことば、20年くらい前から出典不明だ。ロートレアモンの「マルドロールの歌」にもそんな一節があったっけな。

 イヴォンヌ・ナヴァロー「スピーシーズ」(ハヤカワ文庫、200円)。他。飛ばしながらいっきに速読。DNA の情報を伝送することで宇宙中に「種」をばらまくというプロットは面白い。それに、たまたまだが、昨日の日経にでていたWWWでつながったパソコンで電波望遠鏡の傍受する異星人からの電波のデコード作業というのも案の定でてきた。昔読んだコリン・ウィルソン「スペース・ヴァンパイア」(新潮文庫)(こちらはトビー・フーパーが映画化した)のことを思い出した。

10月4日(月) 曇り

 認知科学をちゃんと勉強したい。いや、その成果だけでもいい。ちくま新書の「勉強力」他。「勉強」って言葉なんだか好きではないが、(だって勉めて強いる、んじゃなくてもっと能動的で自発的なものだと信じたいから)、「ついつい勉強がしたくなる」境地に至るにはどうすればいいのだろう?とはぼくの仕事の課題だから。ちゃんと学問の裏付けのない、直感に自信を持ってやってきたが、このところ壁にぶつかって呻吟している。数学にしたってそうだ。反復練習か?概念の深い理解か?この二者択一は数学教育の永遠のヂレンマだ。うちの長男が、電卓を使うといってきかぬ。そんな時、屈託なく叱れる父親ではないのだ。じゃあ使ってご覧、と、心のなかの別の良心がささやく。そんな葛藤を、8月に読んだラング先生の解析入門は笑い飛ばしてくれた。「読者諸賢よ、いましばらく、これらの諸式の意味に拘泥することなく、演算の流れに身をまかせ、導かれた結果に満足せられよ」との謂いは、ひとつのショックであった。なるほど、xe^-1の定積分を求めるときに、機械的に部分積分を試みてゆくとき、いちいち自然対数とxの積の意味を考えてなくともいい。新幹線に乗っているとき車窓の景色が後ろに流れて行くのに酔うことはない。目的地に向かって電車は疾駆してるのだから。

10月5日(火) 曇り

 老人力ならぬ『勉強力をつけるー認識心理学からの発想』 梶田正巳著 1998 ちくま新書、のことが今、gooでわかった。今日、吉祥寺の新刊本屋になかったぞ。明日は弘栄堂にいってみよう。本日はウェブサイトの運用や某プラットフォームにおける教育ソフト開発などを巡ってうち合わせ。他に、Cabri のJAVA Applet について。おう、世の中に美人の多いことよ、と嘆息する日々。もう2時間もすれば、i CEO Steve Jobbs は、kiheiの発表をおこなうはずだ、が、もう寝る。明朝、見ようっと。(以上23:30 記)

10月7日(木) 曇り

 曇りなのか晴れなのかわからない。そんな毎日を送っている。さて案の定、Steve Jobbs は コードネーム kihei ことNew i Mac 発表。本夕には日本での発売の詳細も決まったようだ。148,000円でDVDが楽しめるなら、買ってもいいかな。

 水谷千治「MathCAD をつかった微分積分」(ナガセ、1000円)従来の高校数学参考書の概念にない斬新な本だ。いっそCD-ROMでもつければよかったのに。近くの本屋に未だなし。かわりに秋山仁監修のチャートブックス、表題を失念したが、模型づくりで学ぶ高校数学の2冊本。こちらも斬新な本だ。Pascalの入門書も「勉強力」も本屋になし。というわけでこのところ本を買わないのである。日経夕刊のエッセイを毎週愉しんでいる川上弘美「蛇を踏む」(文春文庫)、本屋で立ち読みしたがヘビーそうなので敬遠。近くにあった小川洋子「妊娠カレンダー」や荻野アンナの文庫本も遠ざけた。というわけで、このところ、いやこの15年来、小説には遠ざかっている自分である。私の小説遍歴はホフマンスタール「アンドレアス」(未完)で終わった、なんて思ったりした。今日はDirectorを少しいじってみた。プロジェクタをこさえると2Mを超えるアプリケーションになるのにShockWaveのファイルにすると数十KBに圧縮できる。それがブラウザで簡単に再生できるのに感心した。

10月8日(金) 曇り

 帰宅の途中、TUTAYAにて川上弘美「物語が、始まる」(中公文庫)、鈴木秀子「いのちの贈り物」(中公文庫)しめて1,100円くらい。こんなことを書くとあきれられそうだが、こっそり告白すると宮部みゆきや川上弘美って可愛いな、と、秘かに思っている。おじさんだからおばさんだって可愛いのだ。五十嵐淳子は昭和47年にアイドルそのものだった。初々しく美しくいじらしく可憐で清楚で清純で、花のようであった。つい5年前だかHOYAのCFで観たときは胸がときめいたよ。中村雅俊のおくさんに・・・。と、諸教混淆に酔う自分である。今夜買った本はまだ読んでないから、感想も書けぬ。

 鬱々たる日々である。

10月9日(土) 曇り

 毎晩疲れて帰宅した後、酒を飲みながら日記を書くので、自然と暴走するのだ。昨夜だって五十嵐じゅんのことを書いてしまって、今日仕事をしながら淡い後悔にほぞをかんだ。といいながら、やっぱり、あの昭和47年の夏だったか秋だったかの或る晴れた日に(確かにその日は晴れていた)、明星だったか平凡だったかいやどんな雑誌だったか忘れたが、たしかに五十嵐じゅんを眺めてこころがときめいたのは事実である。そんなたわいもない秘め事を貴重なネットワーク資源のうえに公開して、恥ずかしくも、いやままよ、どうにでもなれ、と思うのもまた真実なのだ。「青い花」を読んだのもその当時のことだ。鬼友粟屋くんもその当時一緒の寮に住んでいて、今吉祥寺M信託銀行のNくんも一緒の寮に住んでいて、いやはや、初恋のひとも18歳であり、すべては美しく、輝いていた・・・。すべては美しく・・・。戯れの文だと、ひとよ嗤え。ひとよ嘲笑せよ。・・・と、ますます暴走してゆく・・・。

 鬱々たる中年の鬱。 チャゲ&アスカの「男と女」  有線で聴いた曲の歌詞を必死に覚えて帰って、一発でinfoseekでみつかった夜

10月10日() 晴れ

 美しく澄み切った空をこのところ見ないような気がする。才媛川上弘美の「物語が、始まる」。近所で拾ってきた男の雛形。やがてだんだん大きくなって・・・という寓話。なんだか内田春菊の漫画「南くんの恋人」(文春文庫所収)のようだな、というのが第一感。本当のことをいうと、ぼくはこのところずっと、ひょっとするともう何十年も「物語」なんてものに辟易していて、ただでさえ忙しかったり閉塞していたり憂鬱だったりするこの生活に架空の新たな悩みの種などもちこんでほしくないと思っているのかもしれない。昔昔子供の頃、近所で葬式があると、日常ふすまでしめきっていた部屋部屋は何十畳もある大部屋に変貌し、近所から弔いに集まった老人たちの飲めや歌えの賑やかな宴がえんえんと続くのだった。先日上石神井の本屋で立ち読みした宮田登「冠婚葬祭」(岩波新書)には沖縄のある島の奇祭を紹介してあった。97歳の祝いの儀礼は、まるで葬式のようであり白装束と縁者の悲嘆に彩られる。それは新しく赤子として再生するための儀礼なのだそうだ。<死>と<再生>。なぜこんなことを書くかというと、「物語が、始まる」の寓話というのが、都会生活における<死>の欠如、つまり醜悪であったりグロテスクであったり絶望であったりする死の欠如をことさらに寓話化して示せば示すほど、なるほどそうだと思うけれど、先にあげた宮田登氏の研究のような、より根元的で、連綿と継承されてきた「冠婚葬祭」のことや「葬送儀礼」のことなどを研究してみたいな、と思ってしまうのだ。

 先日水谷千治先生の本でしった、MathCAD、日本では住友金属システム開発が販売していて、1ヶ月試用できるデモ版もある。http://www.smisoft.ssd.co.jp/index.html この種の数式ソフト、Mathematica がもちろん有名だが、いろいろ気をつけてみると、いろんなソフトがある。関数を書くということに特化すると、Function View (Win95/98 フリーソフト)が便利で、これは実教出版の数学 IIの教科書指導書にも添付されている。講談社のブルーバックスには、Speak Easy というこれまたWin95/98 の数式処理ソフトつきの本がある。Mac では、Math T/Lという数式処理ソフトつきの本(BNN)がでている。(株)I.E.S が販売している、Math View に関してはここ。ところで、この(株)I.E.S の販売している Cabri Geometry II は、Java でWWWに書き出すことのできる幾何学系ソフト。JAVAのデモはダウンロードして楽しむこともできる。ぜひ一度お試しを。面白いよ。いつか紹介した Geometry SkechPad も、WWWで動くアプレットを容易に書き出せる。再録するとここで、華麗なデモを見ることができる。このようにWWW上でインタラクティブな操作が可能になると、数学教育も面白くなるのではないかしら。生徒一人一人にアプリケーションを持たせなくてもいいしね。本家Mathematica でもすでに同様のツールがあると、友人 Fujimoto君が教えてくれた。ところで、ちょうど今小4の息子にやらせている懸賞問題。6つの正方形。角aと角bの和は何度?たった今息子はできたぞ。

 今朝の日経から。書評欄。マーティン・ウェルズ「文明とカサガイ」(青土社)、池内了「天文学者の虫眼鏡」(文春新書)など科学者の好エッセイを紹介する。高橋英夫「友情の水脈〜文学史逍遙〜」第2回は「李白と杜甫」。氏による岩元禎の評伝「偉大なる暗闇」以降の「友情論」と、李白と杜甫の詩的友情。「創るアングル」欄では、高樹のぶ子「透光の樹」(文芸春秋)の創作のいきさつを紹介している。分別をわきまえた大人の純愛というテーマは、とたんにいかがわしさとすれすれのところにくるわけだが、その危うい境界で小説を書くというのはたいへんなことだろうと、推察する。

 というわけで、恒例の日曜朝の石神井公園古書店巡り。内田春菊「ファンダメンタル」(350円、新潮文庫)。今少し読んでるけど案の定面白い。癖になりそう。他に阿部昭「エッセーの楽しみ」(岩波書店、300円)。それでもって、夕方は近くの古書店で、高樹のぶ子「その細き道」(文春文庫)「光抱く友よ」(新潮文庫)内田春菊「キオミ」(角川文庫)高見順「詩集 死の淵より」(講談社文庫)※中3の時親友Fukumoto君に譲った本だ。大槻ケンジ「行きそで行かないとこへ行こう」(新潮文庫)E・ハンド「12モンキーズ」(ハヤカワ文庫)しめて890円位。夜になってからTUTAYAで高畑勲監督「火乗るの墓」を借りて一家で観た。三猫子さんの薦めによる。戦時下の、あるいは終戦直後の人心ってあんなに酷薄だったのか。むろん私の知るところではないが・・・。USAのとある方の感想をIMDBで読む。「私たちは先のWW2が正義のための戦争であると教科書で教わりました。けれど無垢の民衆に与えた残酷がいかほどのものかよくわかりました。もちろん私は政治家ではないし、将軍でもないけれど。云々」よき映画やよきアニメはこうして国境を超える。そのことのよい証言を様々読んで、いたく感激してしまった。

10月11日() 晴れ

 古書籍専用の検索エンジンで、結城信一「夜の鐘」(講談社)がみつかった。上京したころ、つまり昭和50年頃探した本だ。500円と安価なので、メールで大田区のコミックハウスに注文。夕方には返事がきた。

 コジマに妻と買い物。コードレスアイロンと読書用の照明器具を買った。捨ててあったパイオニアのアンプ持ち帰ってつないだらちゃんとまともな音がでてうれしかった。朝は書棚の整理。日頃は閉架になっているドイツ文学の文庫の書名をEXCELに入力した。常時携帯して古書店巡りに役立てよう。グッピーがあかちゃんをたくさん産んだ。英語や数学の勉強ははかどらなんだ。阿部昭のエッセーをもっぱら読んだ。秋の夜更け、鈴木志郎康氏のJAVA奮闘記をWWWで読んで、今日という日を共有していることのうれしさをしみじみ思った。阿部昭のエッセーに触発されて、ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの手記」を書棚から発掘して読んだ。昔の書き込みが恥ずかしい。WWWで原典を探して原文で読んでみた。ついでにエリザベス朝の詩人、コベントリ・パトモアのことをWWWで調べた。そんなかんだで、安穏に過ぎた秋の休日だった・・・。

10月12日(火) 晴れ

 Sさんの中古のMac購入につきあいました。新品の 56KModem とあわせて税込数万円は安い。しかしこの56KModem がうまくつながらぬ。明日に持ち越し。日経夕刊、白石かずこのギュンター・グラス賛。イデオロギー終焉ののちの民族主義はいつ終わるのか?人類はいつ愚行に気付くのか?

10月13日(水) 晴れ

 結城信一「夜の鐘。」の代金をコミックハウストワイライトに送金した。明日はたぶん届くだろうから、明日書いてもいいのだが、それにしても戯れのインターネット検索で24年来の探求書に巡り合えたのだからうれしい。どんな表紙だろう?どんな函だろう?と、今から想像して楽しんでいるのである。まるで新妻を迎える日のようだと書いたら不謹慎か?前にどこかに書いたが、昭和50年頃、今は亡き百目鬼恭三郎が朝日新聞に「風」というペンネームで書いていたコラムで、この作者のことを知ったのである。このコラムはやがてまとめられて本になった。その本で結城信一のことを知って、音羽のK談社に「夜の鐘」やら、いまはもう忘れたが数冊の本を買いに行ったのだ。音羽のK談社本社の受付嬢の応対はそっけなかった。俺はその時、悟ったね。K談社という会社は己の出した本のことでも、ぞんざいに扱う会社なのだと。その当時、私や私の弟が訪れた、平凡社や青土社や国文社(池袋)などハートの通う出版社にくらべて、K談社の扱いは確かにそっけなかった。ま、そんなことはどうでもいい。驚くのはそれから24年が経過したという、そのことなのだ・・・。

10月15日(金) 曇り一時雨

 少し湿ったペイヴメントのうえを静かに自転車で走る。金曜の夜。行きつけの酒屋で、若い男女のグループがビールやつまみを購入している。楽しい晩だ。高校の時の想い出や、今の生活の楽しさや苦しみを、夜更けまで語り明かしたり、するのだろう。いとしい若さよ。自分にはない。夜の環状八号を自転車で疾走する。おや!すれ違った暗い横顔に遠い記憶が甦る。(電話で中断。高校の後輩Aくんに電話した)

 結城信一「夜の鐘」(講談社、昭和46年)到着。駒井哲郎の版画・装丁。しみじみと本をさすって慈しんだ。書籍への愛情もここまでくると、もう中身を読んだりしなくてもいい。ただ、いま、ここに、そのままで、在るだけでいい・・・。おう、結城信一よ!その評伝を書いた矢部登よ!百目鬼恭三郎よ! 私は、届いた長年の憧れの本を、読むことがあるだろうか・・・?

10月16日(土) 曇り 癒しとしてのアナログ

ニコラス・ネグロポンテのBeing Digital をもじってか対抗してか、Being Analogue を書いたドナルド・ノーマン。彼曰く生物の営みは全て本来アナログなんだと。栗色の髪をかきあげるしなやかな手の動き。昨夜の日経夕刊や今朝の朝刊を読むと、そんなコラムがいくつも目に飛び込んできて面白い。今は アナログのゆるい優しさ(易しさ)が懐かしがられる時代なのだとか。日経の記事からいくつか拾ってみよう。

「パソコンなどデジタル機器が普及するほど、本の持つアナログ的なぬくもりが一種のいやしとして欲しくなる」(「レストランで図書館気分」 代官山の「ページ」、西麻布の「テーゼ」など、飾り物でなくちゃんと本を閲覧できるレストランが都心でひそかに人気を集めている。)

「ゆるいとは、間の抜けたような中間色とでもいうのか。そのゆるさも当時(70年代)の製品独特の魅力らしい」(「若者キーワード〜ゆるい〜」 井の頭線吉祥寺駅ガード横で「ラウンダバウト」という店を営み、60年代から70年代の家電やオーディオを売る二十代の店長の取材から)

軟らかいのがキモカワイイ〜ウミウシやクラゲ」(水族館でクラゲに見とれる若いカップル。ウミウシの色彩を研究するデザイナー)

そういう訳でもないのだが、私もこのところアナログ回帰。昨夜届いた結城信一の本。奥付をみると昭和46年3月となっている。私にとって一番美しかった春。初恋のひととの2日目の出会い。その春の日に世にでて、今まで28年間もどこかでひっそりと眠っていた本が、私のところに届いて。内扉の前頁に挿入されたパラフィン紙。駒井哲郎のロマンティックな装丁。ほんとうにもう、ただ手に持つだけで癒されて、本文を読む必要などないかのようだ。

 それからグッピー飼育。25,000円の水槽一式は出費だったが、このところ稚魚も順調に育ってくれてうれしい限り。深夜や早朝に妻とふたりでうっとりと眺めているのである。アクエリアムってストレスを癒すんだって。そうだろうなあ。

 次がレコード鑑賞。先週マンションの粗大ゴミから復活させたパイオニアのアンプに、長いこと休眠していたビクターのプレイヤーを繋いでみた。針圧の調整をして、やおら針を落とすと・・・。おう、やっぱりレコードっていいなあ。妻に呆れられるほどに、いろんなレコードのさわりを聴きまくった。Yes のClose to the Edge 、緊張と弛緩。ロック史上の名曲だ。Faure や Mahler の歌曲。「私はこの世に忘れられ」他。ドイツロマン派の詩でも、フランス象徴派の詩でも、こうして歌曲として楽しむのもいいなあ、って普段クラシックを聴かない私も再認識した。Keith Jarrett のケルンコンサート。次から次にレコードをとっかえひっかえ。Led Zeppelin のIIやIIIなど、ジャケットを手にするだけでロック若かりし時代のリズムが体に甦るありさま。レコードを聴くまでもなかった。

 ところで、今朝の日経で知った、クラシック音楽のMidi のサイト。こりゃすごいや!Classical MIDI Archives。これだけ揃っていれば、ちょっとしたクラシック音楽の音源つきデータベースだな!「カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲」をダウンロードして楽しんだ。

 夕方は、釣り具の上州屋で、釣り道具を買わされた。息子の自転車を修理に出してここでも散財。トホホ。

10月17日(日) 曇り 癒しとしての釣り・・・

 朝6時に眠い目をこすりつつ起床。荒川へのバス釣行である。長男の同級生K君と息子2人を連れて、自転車で一路荒川へ。約40分の難行である。遊覧船も通る大きな河川なので、小さい橋がない。ちょっと対岸に渡るにも、東京外環自動車道か首都高速5号それぞれの歩道を渡らねばならない。その間、約2km。不便なことこのうえない。(Mapion Map)。ま、話をはしょるが、ともかくも、荒川岸のとある場所に設営のかなったことである。半日に及ぶ少年3人の投げては巻き投げては巻きの成果は?荒川にバスはいたか?答えは、当然ボウズ(苦笑)。ま、半分遊びのようなものだからしょうがないけど。彩湖と荒川が合流する地点では、ヘラ釣りのおじさんたちがたくさん糸を垂れていた。常連さんの集う釣り場で、なんだか濃い雰囲気だった。それにしても、秋の休日の午前。狂騒から遠く離れて、川べりの仮設釣り場で風に吹かれていると、開放感と寂寞感が入り交じったしみじみとした思いにひたるのであった。行く末来し方を思うような。そしてやおら立ち上がり「いざ生きめもや」と叫ばずにいられないような。この場所この時間に携帯FMラジオで聴いた、山崎まさよし「Passage」に感動し、夕方はレコードショップに買いに出かけたことであった。平凡な日常をさりげなく歌いながらも、ある時、日常生活の<窓>から超越の風が吹き込み・・・。おう空は青く雲は速く流れた。ということ。について。

 他に、関川夏央「水のように笑う」志賀直哉「灰色の月・万歴赤絵」(ともに新潮文庫)計250円。福島泰樹「全歌集」(河出書房)の書評を日経で読んだ。たこ八郎や中原中也のこと。

10月19日(火) 曇り後雨 DTM開眼

 Classical MIDI Archives からBach のゴールドベルグ変奏曲をダウンロードしてみた。1時間以上に及ぶ全曲のデータが200KB足らず。MIDI の便利さを改めて実感した。戯れにVector を覗き、Music Stutio (Standard Version)Ver.2.33 (作者はFrieve (FRIEVE-A@msn.com)氏)をダウンロードした。このMIDI編集・HDRソフトはおよそ考えられる全てのことができるソフトで、2000円のシェアウェアである。試みに、このBach の曲を読み込み、楽譜モードにして演奏してみると、さながら演奏者になった気分が楽しめる。歳43になって初めて、こんな風に楽譜とつきあわせながら音楽を聴くという楽しい経験をした。仕事柄、音楽教育にも、こうしたMIDI を使った作曲の練習やMIDIを使った名曲の鑑賞もあってもいいかな、と思うのであった。このことは、別にMIDI と音楽教育のみに限らない。他教科でももっとパソコンやソフトを駆使して、受動的にではなく積極的に参加する授業の形態・発見し創造する教育のありかたを考えてみる必要がありそうだ。

10月20日(水) 雨後曇り

 なにせ更新のみがとりえなので、疲れたこころ疲れた体にむち打って書く。それは、アナログは分散し、デジタルは集積する。ということ。これだけじゃ何いってるのかちんぷんかんぷんだが。和光同塵。世俗の塵にまみれてデジタルの巷間に死するもまたもって本望ということだろうか。

10月21日(木) 晴れ

 ナタリー・サロート女史が亡くなった。御歳99歳の大往生、すなわち1900年(稲垣足穂の生まれた年)生まれの女史は20世紀文学をそのまま生きて1900年代の最後に亡くなったのである。ぼくはこの方の本を読んだり買ったりしたことがあるだろうか?それすらも四半世紀近く前で、朦朧とわからなくなっているのである。「プラネタリウム」「黄金の果実」など。70年代までは新潮社も現代文学の紹介に力をいれていたなあ。今はどうなんだろう?先日、「百年の孤独」の新訳が新聞を賑わせていたっけ。

 ブリタニカの無償公開初日、アクセスが殺到しサーバーがダウンしたそうな。(そのアクセス1500万件とも聞く) 何を隠そう小生もアクセスしたひとりである。ブリタニカへの憧れは心の深奥に潜んでることを告白しよう。代々学者をうんでいるHuxley一族のひとりA.Huxley は少年時代は百科事典を読むのが趣味だったそうな。ローマの喜劇詩人テレンシウスが云う、「我は人間なれば人間的な全てに無縁ならずと信ず」。おうこれこそ我が真情である。ホラチウス「歌章」(Carmina)だったか「詩論」だかで彼のいう、詩人という存在の歴史を超えた<永遠性>、そうしたものとあわせて、ヨーロッパの歴史の凄惨さにも関わらず、今もなお一抹の憧れを抱いているのは、こうしたヨーロッパの理念がある為なのだ。ヨーロッパというのは、日本人にとって双曲線の漸近線のようなもので、ひたすらに近づいていってもついに到達できぬ概念なのかもしれない。ヨーロッパ理念への憧れを生涯を通じて持続するのか、東洋いや環太平洋文明へ回帰するのか?という難問。ぼくは後者へ傾きつつある。であるが、<デジタルとの格闘>(卑近にいえば和光同塵)に身を置いて、格闘につぐ格闘で、己を鍛えようとしている、ということも事実なのだ。

 Ian McDonald 初めてのソロアルバム。それから、熱帯魚の水槽にヒーターをいれた。150W。けっこう電力喰うのね。

10月23日(土) 晴れ

 妻とふたりで池袋にでかけた。結局いろいろ迷った揚げ句、BOSEのAMS-1 というミニコンポ購入。79,800円(税別)という値段は普通だが、カードで買っても8%ポイント還元なのでまあ安いといえようか。それから、西武デパートのLIBLO(書籍館)のなかを、自然科学や人文科学・文芸のフロアを閲覧した。素晴らしい本に囲まれて浄福を感じた。素敵な本屋だよ!西武リブロは。詩の本の店も健在。こことはつまり24年来のつき合いということになる。大木惇夫の全詩集(3巻、金園社?)なんて出てるのね。久しぶりに大きい本屋に顔を出すと、いろんな新刊・旧刊に圧倒される。ああ、生きててよかった、としみじみ思うのであった。オーディオへの急回帰のせいか、五味康祐「オーディオ遍歴」「音楽巡礼」(ともに新潮文庫)を書棚から発掘して読んでいる。私はこのひとに、麻雀やら手相やら人相やらオーディオ道やら、いろいろ教わったのである。ついに逢うこともなかったが(当たり前だが)、いま想うと人生の優しき大先輩だったのだろうか?

 i Mac DV と i Book を、さくらや池袋店で触ってきた。こちらも買いたい。

10月26日(火) 晴れ

 妻が都心で仕事を始めた。というわけで、やっとこさ、J-PHONEの携帯電話をネットで注文。別に藤原のりかに惹かれたわけじゃないが、おくればせながら、Mobile への仲間入りというわけ。阿部昭のエッセイで志賀直哉が気になったので、ゆっくりと細々と、後期の短編を読んでいるところ。たったそれだけ。でも満たされて静かに満足である今日この頃である。

10月28日(木) 晴れ

 昨夜の激しい雨に洗われた首都圏の空は、今朝とても美しかった。見上げれば透明な青い空のうえを高い雲が流れて行く。地球という第三惑星に生まれたことをつくづく懐かしくおもうのであった。しかしながら、その空の青さといえども高校生の頃眺めた青さほど純粋で美しくはない。あの頃は、空のむこうにより美しいいのちのあることを信じていたのだった。が。

 _BOSE 社のコンポ昨日届いた。今朝は忙しい家人たちをよそに、試聴。Ravel のピアノ曲の美しさ、プレゼンスのすばらしさ!

 退職する小社M校のOさんが職場に挨拶に来た。そこで働いていると思っていた元教え子MN(Miyuki Nagashima)さんは結婚退職したとのこと。元教え子MK(Kanayama)さんの結婚も同時に知った。

10月30日(土) 晴れ

 妻の誕生日。夕方、近くの木曽路にて一家で食事。

10月31日() 晴れ

 江古田に行った。山崎まさよし Passage のB面(?)の曲に歌われてる。日芸や武蔵大・武蔵野音大が集う西武池袋線のカルチェ・ラタンである。駅前をぶらぶらしながら、初めて訪れた20年前を思い出していた。この前来たのはいつだろう?4・5年前に来た覚えはあるが・・・。南口駅前山本書店にて、唐詩選 中巻(岩波文庫、250円)。日芸前の青柳書店は今はなく、新たに根元書房の分店となっていた。その根元書房の駅前店を覗く。江古田らしく映画・芸術・文学関連が充実している。南口踏切そばの名前を忘れた古書店、まずまずの本屋だったが、その脇の江古田名画座(?)とともに大きなパチンコ屋に変わってしまった。もっともこれは以前の訪問で知っていたことだが、懐旧を新たにした訳。南口落穂舎は比較的客を集めてよろしく経営しているところ。昔は白い猫がいたように思うけど。稲垣足穂「ヴァニラとマニラ」(仮面社)函付があったが、函から抜き出せなくて値段がわからない。小生の持ってるのは函なしなので、函をしばし楽しむ。根元書房本店・名前を忘れた古書店(ともに武蔵大そば)にゆくには疲れた。風光書房(新桜台駅そば)はお休み。その昔「うさぎ書房」(?)という古びた書店があったけど、今はたぶんないだろう。落穂舎向かいには、BOOK OFFが開店していて賑わっていたが、たいした本なし。CD高し。総じて昔日に親しんだ店の多くは様変わりしていて寂しく思った。かつてこの町で遊んだ友人たちとは今は逢う術もない。夕方、富士見台駅前の山本書店(江古田の姉妹店?)にて、店頭均一本から、コンラッド「青春・台風」尾崎一雄「暢気眼鏡」ヴェルヌ「十五少年漂流記」(すべて新潮文庫でしめて200円)。「はきだめに鶴の法則」により購入しておいた。

 季節はずれの連休もおしまい。明日からまた忙しい。鬱を乗り越えがんばろう、っと。ここまで読んでいただいてありがとうございました。

 

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