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6月12日(金)谷川健一「南島論序説」発見

 次男を塾に連れていった帰り、石神井公園の古本屋(バス通り、マクドナルドの前)に立ち寄る。井伏鱒二の「釣師・釣場」(昭和32年、新潮社)既に売却済み。残念だ。そこで、もうひとつの古本屋「きさらぎ書房」(小山病院の手前)に立ち寄る。店の名前は失念したが、以前は北口にあった古本屋で、日本近代史や民俗学などが前から充実している。店頭に珍しく人だかり。といっても平日はほとんどこの界隈に立ち寄らないので、いつも意外に賑わっているのかもしれないが。

 店頭の100円均一本を購入したお客が、レジでうれしそうに店主に尋ねる。「なんでこんなに安いの」って。「ほんの気まぐれですよ。ハハハ」「家にあるんだけど、この本は箱付きできれいなんで、おもわず買っちゃいましたよ」

 いやー、いいひとだなと心から思う。いまどき100円でこんな感激を味わえるのは古本屋だけだろう。(茶化していうのではない。本の場合、通常の商品と異なり思い入れが可能だから、店頭の均一本にだって出会いの感動があるのだ)

 別のお客さんは、書棚から白川静の「甲骨文の世界」(東洋文庫)をじっくりと選んで購入していった。この方も感じのよいひとだ。

 石神井公園の駅前は相変わらず歩行者や自転車やバスがひしめきあってごちゃごちゃしているが、一歩路地に入ると静かなものだ。

 さて、澁澤龍彦の「私のプリーニウス」をちらっと立ち読みしたのが幸いだった。というのもそのお陰で20センチほど左にある谷川健一の「南島論序説」(学術文庫)をみつけたから。うれしかった。値段は450円。この本は長らく品切れになっていて、この5年間ぐらい大きな本屋にいくたびに探していたけどみつからなかった本だ。ちゃんと読んでみようと思っている。(後記:日経新聞7月5日付書評に谷川健一の歌集が紹介されている。谷川雁は健一の弟であったことを知った。)

 朝、練馬高野台駅前のピーコックで購入した「もう、君には頼まない(石坂泰三の世界)」(城山三郎)を読む。石坂泰三の府立一中時代の同級生(またはその前後の学年)。土岐善麿、吉井勇、市川三喜、谷崎潤一郎、辰野隆。錚々たる顔ぶれだ。

夜、開高健「オーパ」読了。

※石神井公園には、北口の駅から離れたところに久保書店があった。ここの店主は、江古田駅の北口、銭湯の隣に店があったころからの顔見知りだ。20年近くになる。4年ほど前に練馬区役所前に引っ越してしまった。また、南口バス通りからマクドナルドのある交差点を直進し、清心幼稚園に向かう道の途中に、日本近代詩の専門店がある。(後記:石神井書林) ここの店主は以前日経新聞の書評欄に顔写真付きで紹介されたことがある。店内には萩原恭次郎「死刑宣告」など、まあその手の詩集がずらりとならんでいるのだが、即売会中心なのか、残念ながら店舗は閉まっていることが多い。

6月20日(土)

 井伏鱒二「荻窪風土記」を毎晩すこしずつ読み続けている。

 中野孝次「贅沢なる人生」(文春文庫)。大岡昇平・尾崎一雄・藤枝静男。著者が人生の師と仰ぐ3人の文士との交遊録。中野孝次は、昭和50年頃読んだ、ホフマン「悪魔の美酒」(河出書房)の訳者である。この小説は、大学の夏休みに郷里で怒濤のごとく読みふけった記憶がある。書棚から取り出して20年ぶりに開いてみたが、あらすじや構成は思い出せない。いたく感激した思い出だけが残っているのだ。

 というわけで、訳者中野孝次の名前も深く記憶に残った。やがて氏は、「麦熟るる日に」などの自伝小説で小説家としての遅咲きのデビューを果たし、ベストセラー「清貧の思想」を書くことになる。

 「清貧の思想」は、発売された時期がバブルの崩壊期ということもあってなにか仕掛けられた感じがして読まなかったが。今回読んだ「贅沢なる人生」には、氏の文学に対する誠実な態度がほうふつとされて興味深く読むことができた。

 ドイツ文学の川村二郎や高橋英夫などとともに、ぼくの心情にもっとも近い親しみを感じるのだ。今回気づいたが氏はぼくの亡くなった父親と同じ年の生まれだ。(大正14年)

6月27日(土)

 この1週間、たいして本は読まなかった。椎名誠の「中国の鳥人」読了。表題作は面白かったし、そのほかの短編も面白いのだが、どこか筒井康隆風で、いつか読んだような短編ばかりだ。

 私の会社に入社したT君。慶応の仏文の出身だ。受験の際、文学をやるなら仏文だと決めていたのだそうだ。ひょんなところに同志がいて、うれしくて思わず高笑いしてしまった。ところがT君は小馬鹿にされたと勘違いしたようだ。申し訳ない。

 思えば自分にとっても、文学は10代から20代の半ばに至るまで、生活の糧であり、生きる喜びであり、かけがえのない伴侶であった。

この件中断。さて、

「調査のためのインターネット」(アリアドネ編、ちくま新書)を手がかりとして、英文学や仏文学の電子テキストの関連サイトを発見した。英文学については、カーネギーメロン大学のリンクから、Gutenberg EtextやCMU Online Book Pageが参照できる。特に、CMU Online Book Pageは、世界中で入手可能な英米文学や人文科学の古典の電子テキストが、著者名や作品名から検索できるので、とても便利だ。

 仏文学に関しては、L'Association des Bibliophiles Universels がある。ちょっと覗いただけだけど、収録された作品本文からの全文検索もできるようだ。主要な古典は収録してあるようだが、近代文学すべてを網羅するわけではない。

 ところで、Web上でフランス語の特殊文字を表示するにはどうすればいいのだろうと調べたら、どうも特殊文字のエンティティを入力するらしい。例えば、

Ta chair 騁ait pareille celle des cocos (F.Jamme)

という風に。

6月28日(日)若洲浜公園サイクリング

 息子2人といっしょに若洲浜公園に堤防釣りに出かけた。キャンプ場の売店でえさを買い求める予定だったが、あいにく休業。段取り悪し。自転車(安い!)を借りて公園の人口島を一周。人口島東側の長い直線道路のサイクリング快適なり。葛西臨公園やディズニーランド眺望さる。終日曇日のつもりが、晴れ間が見え、暑し。長男気分を悪くす。(すぐ快方に) その後、堤防に向かい、長い堤防を歩きながら、息子2人に「えさがないよ〜」と連呼さす。夫婦で釣りを楽しんでいた方が、アオイソメを一袋分けてくださる。礼をいい、代金を申し出るが固辞さる。もって徳とすべきなり。1時間ほど釣り糸をたるるが釣果なし。周りではサッパ・イワシなどが釣れている模様。

 さて、有楽町線の車中にて、小沼丹「懐中時計」(講談社文芸文庫)を読む。心に沁むいくつかの短編あり。暇ができたら高田馬場あたりの古本屋で単行本を探してみようかと思う。夜は、永井荷風「摘録断腸亭日乗」下巻(岩波文庫)を拾い読みする。

 阿部昭の短編を読みたくなった。明日吉祥寺で探してみよう。

6月30日(火)吉祥寺の古本屋放浪記

 というわけで、昨日今日と阿部昭の短編集を求めて吉祥寺や石神井の本屋・古本屋を歩き回ったのでした。吉祥寺の本屋・・パルコ・ルーエ・弘栄堂。吉祥寺の古本屋・・サンロードの外口書店・もう一軒。井の頭通りの「よみた屋?」、そのそばの一軒。サンロードを北進して五日市街道東映手前の一軒。石神井公園では、草子堂?。いずみ書店。外に、ツタヤ南田中店や上石神井の本屋など、合計12店を巡りました。結局みつけたのは、岩波新書「短編小説礼賛」の1冊のみ。(草子堂で100円也)まあ、大型の本屋や専門の古本屋ではないものの、こんなに本屋や古本屋を探し歩いても手に入らないほど、マイナーな作家ではあるまいに、と思うのでした。こうなったら、意地でも阿部昭の短編を探すつもりです。ですが、しばらくは紀伊国屋のBookwebなどに頼らず、地道に歩いて探してみようかなと思う今日でした。

 本日の購入図書。阿部昭「短編小説礼賛」(岩波新書黄版)。ドーデ讃に共感!他に、開高健「もっと遠く!」上下巻(文春文庫)。

 阿部昭氏は、東大仏文の出。急逝してすでにこの世にいないと知った。1934年生まれというからほんとに早く泉下のひととなったのだ。今年満70歳を迎えた母をもつ身としてはつくづくそう思う。

 古本屋を巡っていろいろと収穫もありました。永井荷風全集1.5万円なり。(吉祥寺「よみた屋?」)このところまた、「摘録断腸亭日乗」を拾い読みしているので、荷風の全集にはあこがれるのです。それから、講談社文芸文庫の新刊では、中原フクさんの晩年の口述による中原中也記。昭和55年に101歳でなくなったことを知りました。夫や息子の早逝した分まで長く生きた母親。ぼくの高校時代の友人粟屋龍彦君は、山口県の出身で実家が病院を営んでいたのですが、その縁もあったのかどうか、昭和47年の夏に、この中原フクさんに会ったんだよ、と高校の教室でうれしそうに話してくれたのをよく覚えています。

7月2日(木)アメリカの仮想書店

 阿部昭の短編については、結局、本屋での入手はあきらめ、昨日Bookwebにて注文しました。ベネッセと中公文庫の2冊。早く届かないかな。ところで仮想書店では、米国のAmazon.comがとても便利で親切です。日経新聞で4月25日に紹介されたように、日本人向けの日本語のホームページも開設されており、カードを使った注文や送料など気になることは日本語でも確認できるので安心です。注文した後のレスポンスも早く、次の日には早速受注の確認のメールが届きます。米国の仮想書店では他にBarnesAndNoble.comがあり両社しのぎを削っているようですが、日本人向けに力をいれているのはアマゾンでしょうか。

※3年前の夏、Madison,Wisconsinに遠隔教育の研究会に出かけた折り、郊外の大きな本屋で記念に買い求めたのが"Great German Poems of the Romantic Era"(Dover)。(ドイツ語原詩と英訳が対比して読める。まあドイツ語は分からないけど英訳とあわせると原詩のイメージがつかめるよね。)天井まで届く高い本棚に上品な本が整然と分類されて並べてあったっけ。あのMadisonの暑い夏に巡りあったひとびと、そしてあの本屋。もう金輪際会ったり訪れたりすることもなかろうと思うとある種の感慨がある。

 開高健「もっと遠く!」上巻をぼちぼち読んでいます。

 新卒で入社した新人たちの知的好奇心旺盛なのに感心します。「教えるものが教えられるのが教育の理想とされているが、まったくあいた口がふさがらなかった。」(開高健「もっと遠く!」、第1章)

7月5日(日) "Le vierge, le vivace et le bel aujourd'hui "

 息子2人と、長男の友だち3人、総勢5人の小学生を連れて、若洲浜公園に釣行に出かけた。このところボーズが多かったので、長男に恥をかかすまいと「釣らずんばおかず」の必勝作戦を考案。すなわちサビキによるサッパ大作戦(笑)。これならよっぽどのことがない限り、全員釣果を家に持って帰れるものね。

 昨日と異なり雲の多い予想だったのだが、昼前からは太陽が燦々と照りつける陽気に。でも計画通り全員サッパがたくさん釣れてとても喜んでくれた。よその子供を預かるというのもけっこう楽しいものだ。

 有楽町線の往復の車中では、開高健「もっと遠く!」上巻・下巻を読む。阿川弘之提督との釣行記楽し。

友だち3人もみんな入れ食い状態で大喜び

トリック仕掛け作りに余念のない息子ふたり

7月11日(土)阿部昭に出会う

 昨日紀伊国屋から阿部昭「18の短編」(福武書店)が届いた。A5版の瀟洒な装丁で、よく手になじむ好ましい本である。吉祥寺を中心に本屋・古本屋と手当たり次第に探して求めた作家だけによろこびもひとしおである。

 わたしは平日は帰りが遅く、このところの猛暑でばて気味なので落ち着いて本を読むことがない。この1週間も、開高健「もっと遠くに!」「ロマネ・コンティ・一九三五年」をぼちぼち読みながら、燦めく文体に酔ったりしていた。

 今朝は6時半頃起きて、阿部昭の本を読んでみた。最初の短編「あこがれ」で、すうっと作品の世界に入ることができた。まるで旧知の友に再会したような懐かしさを感じる。これからひとつひとつの作品を大切に読んでみたいと思う。

7月12日(日)清貧の読書

 昨日は、阿部昭の「水にうつる雲」「ささやかな結末」「子供の墓」「家族の一員」などを読んだ。作者の心情世界にはすんなりと入っていけるものの、短編小説の今日的な価値といったことも妙に考えさせられる。そもそも今日この頃、どうして私は小説を読むのだろう?と。この数年間、日本の作家に回帰し、またいえば文学的なものにゆっくりと回帰してきたのだが・・・。自分のいのちの有りよう、自分の生活の深いところからの癒しと自信回復を、求めているような気がする。

 買ったままになっていた新田次郎「八甲田山死の彷徨」(新潮文庫)一晩で読了。面白かった。成功の本質・失敗の本質。ルポルタージュ佐野三治「たったひとりの生還」(新潮文庫)、吉村昭「破獄」(新潮文庫)。極限状況を冷徹に書いた作品に、生活の鬱が癒されるのである。

 今朝は長男をを富士見台の床屋に連れていったついでに、次男と一緒に富士見台駅前南口の古本屋「山本書店」をのぞく。以前はずいぶん雑な古本屋だという印象があったが、すこしずつよくなっているような気がする。吉村昭「高熱隧道」(100円)、山口瞳「迷惑旅行」(新潮文庫、現在入手不可、200円)、山口瞳と三十人「この人生に乾杯!」(TBSブリタニカ、500円)。以上千円札でお釣りがきた。他に、新潮社の昭和30年代の文学全集(箱の真紅のもの)店頭にたくさん積んであった。よくよく眺めると尾崎一雄「暢気眼鏡」や梅崎春生「ボロ家の春秋」など新刊では求めにくい作品がたくさんある。清貧の読書ここにきわまれりといった感じだ。いよいよとなったらこれらの美麗な均一本を購い毎日のんべんだらりと読んでくらすのもよかろう。そういえば高校生の頃、郷里は鹿児島の天文館の古本屋(孝文堂?、今はない)やせんば書房?(今はない)でよくこれらの文学全集を購入したものだった。(ついでに書くと、鹿児島の繁華街の古本屋で健在なのは糸書店?だけか?奇妙なオウム?のいるこの鄙びた古本屋で、昭和52年頃、Valery"Variete"(人文書院版)を買ったような記憶がある。店主健在なりや。)新潮社のこの真紅版は昔も今も値段も扱いも全く変わらない。しかし古色蒼然としてゆくわけでもない不思議な本だ。

 富士見台駅から線路沿いに練馬高野台駅前まで自転車ミニ旅行。生活の鬱わずかに散じる。昨日の日経新聞、若いひとに散歩や自転車が人気だと報じている。そういえば泉麻人「東京自転車日記」(新潮社、1500円)、けっこういい本ですよ。

7月15日(水)

 仕事の関係で、CAT(Computer Adaptive Test)という概念を調べる。multiCAT。Altavista遊泳。Barron's educational。相変わらずAltavistaLycosは面白いよ。

 山口瞳「迷惑旅行」(新潮文庫)を寝る前に少しずつ読んでいる。ドスト氏こと関保寿氏の自宅炎上のくだりに至る。ここに引く。「骨董だとか仏書だとかは私には惜しくないんですよ。本は読んでいますし、骨董は目に残っていますからね。だけど人の情っていうか、これにあうと、どうにもならない。これに困るんです。」ここに至って、永井荷風「断腸亭日乗」昭和20年3月10日のくだり、偏奇館炎上の悲痛なる悲しみを思う。

 ぼくも、人生の悲しい累積である書物をもし失うことがあるとすれば、家や金やそのほか諸々の資産よりも、その痛手は深いだろうと思う。昔めぐり会ったひとたちとは別れ、再会のすべもない。ひとり本たちとは、ずっとずっと一緒に生の流転をともにしてきたと・・・・。

 五日市街道沿い喫茶店「天子峰」にて、ビッグコミック連載中の谷口ジローの漫画を読む。今一番気になる漫画。誰もが考えたことのある当たり前のプロット。しかしそのプロットは、広大にしていかなる細部をも飲み込むたぐい。それをいったん引き受けた以上、いかなるより小さいプロットやアイディアもそれに飲み込まれる。そのように大きいプロットを彼はいかに収斂してゆくつもりか。まんがの場合、シーンを読者と共有していくわけだから主人公の幻想という収斂は難しい。映画やまんがの制約。H.G,WellsやJ.L.Borgesの物語構造。ついでに書く。山本おさむの新作(ビッグコミック)読む。岩波書店の新刊について12日付けの日経新聞書評欄に顔写真入りで紹介されている。今冬の「ランドセル」は秀作にてふたりの息子にも読ませた。今度の作品救いがたき貧困や差別を書ききろうとする意図あり。

「英語の感覚」(上下巻)(岩波新書新赤版)購入したし。

 おおきなマスクメロンをいただく。自転車の買い物かごに入れて宝のようにして家に持ち帰る。

7月18日(土)夢の本・本の夢

 昨日ラオックス吉祥寺店で教育ソフトを眺めていたら、「わくわく で・ん・き」という小学生向けの理科のソフトをみつけた。これがなかなか面白そう。実物の組立実験キットがついていて、実際に本物のラジオやモーターや発電機を作りながら、その原理をパソコンで学ぼうというものだ。本物がついているというのが気に入ってつい購入してしまった。(5200円くらい)これからはこういう教育ソフトの方向もあるな。くわしくはこちらを。

 引き続き山口瞳「迷惑旅行」を読んでいる。彼の作品は紀行文もエッセイも小説もどれもこれも素晴らしい。特に晩年の洒脱な日記が好きだ。このところ本屋でも古本屋でも見かけることが少ないのは残念である。もうすぐ亡くなって3年になる。

 「迷惑旅行」巻末の沢木耕太郎氏の解説で大木惇夫のことを思い出したので書いておきたい。山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」(新潮文庫版)198頁に大木惇夫「戦友別盃の歌」全文が引用されている。この詩人のことを知ったのは、日経新聞平成5年11月10日付夕刊大城立裕氏のエッセイにおいて。それをうけてまもなく当時日経に連載中の久世光彦「余白の多い住所録」(のちに中央公論社から単行本、最近中公文庫)で氏の思いが披瀝された。この日本においてPoete maudit(呪われた詩人)とは戦争責任で文壇を追われた詩人以外にありえない。詩人の長い戦後の生を想像するとそんな思いにかられる。

 夢の話。一昨日の朝は、本屋の夢。エピステーメーの仮想の増刊号を夢のなかで手に取る。「夜とロマン主義」について、最新の情報理論や生物工学を駆使した論文集。奇天烈な図版や数式が多数掲載されていた。なるほど、そうだったのか。夜はこんなにも深かったのか、と夢の中でいたく感心した。昨夜は、猫の夢。おおきな優雅な猫がねそべっていて、柔らかい毛の生えた白い腹を自分はゆっくりと愛撫していた。変な夢。吉祥寺界隈を散歩するとき猫をよくみかけるのが夢に反映されてるのか。ほんと猫って可愛いよ。

7月19日(日)

 ノバート・ウィーナー「サイバネティックスはいかにして生まれたか」(みすず書房)、10年間書棚に眠っていた本を読み始める。今日のアメリカのコンピュータの興隆。MAC OSの背景にある哲学的なメタファー、認知科学の成果。この興隆は、ヨーロッパの諸科学の成果が数多の天才たちを通じて世界大戦の前後にアメリカに流れ込んだからではないか。「(わたしの)父にはドイツ思想とユダヤの知性とアメリカ精神という最高の伝統が兼ね備わっていた。」(第1章より)。天才たちの交流と啓発が興趣深い。中里恒子「時雨の記」、中野孝次「人生のこみち」(ともに文春文庫)購入。中里恒子は中里介山の娘だとばかり思いこんでいた。不明を恥じるのみ。

 この夏休みは英語を少しましにしたい。それからコンピュータ関連。高校レベルの数学の復習。

 日経新聞朝刊、文化面。中村稔の文章。作家の手紙に関して。毎週日曜のこの面の随筆はいいよねえ。

 「わくわく で・ん・き」のゲルマニウムラジオ、一応聴けた。かそけき音声。コンデンサーのかわりにアルミホイルの2つの筒をスライドして使うところが秀逸だ。マンションなので屋内ではアンテナを張っても聞こえない。集合アンテナの同軸ケーブルにアンテナ端子をつなぎ、アースは水道管に。というわけで、ご大層な分、ありがたみは薄れたか。しかしともあれ電池もトランジスタも使っていない。この都会にあふれている電波と交流するだけの原始機械なのだよ、息子たちよ。(注、「わくわく で・ん・き」の解説CDROMにはバグがあるみたい。肝心の説明が見られず苦労した。ま、先日は面白がって購入したけど、子供向けの科学書が3〜4冊くらい買える金額だ。CDROMの開発・制作にはいろいろと苦労もあるだろうし、先駆的な箇所もあるのだろうけど、それでも消費者の批評は厳しいのだ・・・と、自戒する)

 日経新聞の関川夏央の文章。情報というキーワードに振り回される現代人を嗤う。「もっとも手近な「情報機器」携帯電話で、人々はなにを話しているか。「いま、どこ?」「いま、電車のなか」。これも情報か?私にはただの「さびしさの交換」に映る。」少産化高齢化の末、ジジババのあふれる近未来。部分的な引用で文意が歪められるのを懸念するが、あえて文末を引用する。「それは、進歩の呪縛から解放された、意外と明るくてのんきな世の中である。遠い昔に似て、お化けは出るが「情報」は徘徊せず、したがって、ただしっかりとした日常のみを積み重ねる社会である。」私には半分共感、半分反発。そんなに簡単にのどかな退嬰に日本がもぐりこんでいけるほど事は簡単じゃないよと思うから。でもそんな社会でもいいなとも思ったりするから。

8月1日(土)沖縄旅行から帰って

沖縄・鹿児島に旅行してきた。仔細は近くホームページにまとめてみたいと思っている。3年前アメリカに旅行して文明観が変わった。今度の沖縄旅行では、生命観のようなものが変わったと思っている。ただ、簡単に表現できるような生易しいものではない。というわけで、旅から帰ってきて、沖縄に関する本を引っぱり出してはぱらぱらとめくっているというところだ。今後は読書を通じて、沖縄を学んでみようと思っている。

 外間守善「沖縄の歴史と文化」(中公新書)、谷川健一「南島論序説」(講談社学術文庫)、岡本太郎「沖縄文化論」(中公文庫)、池澤夏樹「南鳥島特別航路」(新潮文庫)、酒井敦「沖縄の海人(ウミンチュ)」(晶文社)、島尾敏雄「新編 琉球弧の視点から」(朝日文庫)、柳田国男「海南小記」(角川文庫)「海上の道」(岩波文庫)、折口信夫「古代研究」(中公文庫版全集)、田中光二「オリンポスの黄昏」(集英社文庫)。上田篤「日本の都市は海からつくられた」(中公新書)、島尾敏雄対談集「平和の中の主戦場」(冬樹社)、「総特集 日本の根っこ」(「現代思想」 1984年7月臨時増刊号)。沖縄民謡カセット版(キングレコード)。

 手近にあったのはざっとこんなところ。とりとめのないリストになるのはしかたがない。ただし、それにしても、沖縄を知ろうとしてきた私のアプローチ(雑だけど)はうかがえるかもしれない。

 今朝、Bookwebで、戸井昌造「沖縄絵本」、安間繁樹「西表島自然誌」(いずれも晶文社)、阿部昭「父と子の連作」を注文。届くのが楽しみだ。池上永一「風車祭」(文芸春秋)、又吉栄喜など沖縄の現代文学まではまだ手が届かない。

 相変わらず雑ぱくな読書が続いている。志水辰夫「いつか浦島」(旧題「虹物語」)(集英社文庫)。主人公の自己表現が達者すぎるのは、まあしかたがない。ハードボイルドの得意な作家だから。でも好きなんだ、このひとの小説は。「いまひとたびの」(新潮文庫)は老いや死を予感した人間の心情を描いて心に沁みたけど、このひとは若者を描いても上手いのだ。優しい青年を遠くでみつめている作者がいる。つげ義春「義男の青春・別離」(新潮文庫)。つげ義男の漫画も読んでみたいが本屋に見つからない。去年釣り漫画雑誌で読んだけど飄々として面白かった。白洲正子「遊鬼 わが師 わが友」(新潮文庫)、山口瞳「木彫りの兎」(集英社文庫)「旦那の意見」(中公文庫)。最後の2冊は、富士見台駅旧踏切北の線路脇にできたいわゆる「コミック・CD」系の古本屋でみつけたもの。そんな本屋でも取り柄はあるよ。てなわけで、那覇市でも民宿コバルト荘近くのコインランドリーで洗濯物を乾かす間、隣の「コミック・CD」古本屋を覗いたけどこちらは収穫全くなし。鹿児島市では幻の糸書店まで足を運ぶ暇なし。未だ健在なりや。

 日経新聞7月27日付、古本と森林交換というユニークな商法で評判の「たもかぶ」が池袋に東京店を出店との記事あり。8月1日より開業とのこと。くわしくはたもかく株式会社のホームページをご覧ください。

 勉強しないといけないとつくづく反省している。英語や数学やコンピュータ。でも相変わらずとりとめのない読書が続く。篠田節子やら「Cの福音」やら「兵士に聞け」やら、新田次郎やら又吉栄喜やらいろいろと読みたいが、拡散を恐れてじっと我慢している。でも本屋にいくと野田知佑の本を買ったりして・・・・。

8月2日(日)沖縄旅行(つづき)

 石垣島のペンションとのすくで夕方7時に聞いた、市内の放送で毎夕流れる音楽にこころ打たれた。民宿の部屋でシャワーを浴びながらその旋律に不覚にも目頭が熱くなった。おう、この懐かしさはどこからくるのか?なぜ南島の旋律は懐かしいのか?帰京以来ずっと気になっていた。今朝早く起きて、あちゃらで石垣島閑話という素晴らしいページをしり、さっそくその掲示板に曲名の教示を乞うて書き込んだ。そしたら半日後、Sさんというかたから、その曲は「えんどうの花」ですよ、という丁寧なご教示があった。歌詞はgooですぐみつかった。沖縄のうた100選というページに。一連のやりとりにちょっと感激した。

 椎名誠「あやしい探検隊 で笑う」(角川文庫)、沖縄の無人島(安室島?)旅行記が読みたくて購入。さっそく一読。中村征夫の写真が美しい。そんなわけで、本屋にいっても、沖縄のダイビングに関する詳細なガイド本や水中写真集などに目がゆく。日経をめくっても、又吉栄喜さんのインタビューがすぐ目に飛び込んでくる。いやはやまるで初恋のような状態だ。

8月13日 「わたしはこの世に忘れられ・・・」

 八重山諸島、石垣島沖、満潮時にしか姿をあらわさない「浜島」という珊瑚礁の島で、慣れぬシュノーケリングを家族と楽しんだボクだった・・・・・。あれから20日、あわただしく流れる東京の時間。夕立がしばしば降り、濡れて自転車で帰ることをそのたびに気にした。夕立の直後はかえって湿気が多くまるで亜熱帯の夜のように濃厚なむっとした空気が漂うのだった・・・・。

雲間をもれて月がしたたるように

銀灰色の靄でたそがれの谷は

みたされていた けれどもそれは夜ではなかった

くらい谷間の銀灰色の靄のなかに

私のまどろむ思いはとけ

私はただよう透明なのなかに

しずかに沈んで生をすてたのだった

なんというすばらしい花がそこにあったか

萼もくらく輝きながら。植物のしげみを透かして

黄玉のような黄赤色の光が

あたたかい流れとなって よせては 微かに光っていた

すべては憂鬱な音楽の深いあふれに

みたされていたのだった そして私は知っていた

わけはわからぬながら知っていた

これが死だ 死が音楽になったのだと

せつなく憧れ 甘美に 暗く輝きながら

それはこよなく深い憂愁にも似ている

       だが 不思議ではないか

そのとき言いようもない郷愁が声もたてずに

私の心のなかで生を求めて泣いていた

夕ぐれ 黄色い巨大な帆をはって

紺碧の水のうえを故郷の町の傍らをすべってゆく

遠洋航の船の上で泣くひとのように。その時

彼は路地を見 噴水のさざめきを聞き

接骨木のしげみの匂いをかぎ

ものおじて泣きだしそうな幼い者の眼をして

子供の自分が岸に立っているのを見ている

開いた窓からもれる自分の部屋の灯が見える

けれども巨大な船は彼をつれさってゆくのだ

紺碧の水のうえを音もなくすべりながら

黄色い 異様な形の 巨大な帆をはりながら



                   ホフマンスタール「体験」(富士川英郎訳、平凡社)



8月15日(土)

 先日、鹿児島県人会からの案内状が届いた。今日は関東桜島会(仮称)の発起を兼ねた案内状が届いていた。営利が目的ではないだろう。それくらいは分かる。住所はおそらく母が町役場に知らせたんだろう。それも分かる。でもでも、・・・・、何かが違うのだった。こんなところまで干渉されたくはなかった。練馬が第2の故郷だというのに。さても故郷に錦を飾るにはいささか非力な自分であるが・・・・。おとといは、職場の学生アルバイトのK君が、鹿児島出身と聞いて、本人に聞いてみると、指宿出身とのことだ。よくよくみると笑顔が可愛いではないか。いやー、可愛いやつだなと心から思う。庇護してやりたい、助けてやりたいと心から思う。嫌みにおもうひとがいたら、自分の不徳だけど、それはね、自分が誤った青春を過ごしてしまった悔いが心に残っているからだよ。

 阿部昭「父と子の連作」(福武書店)、安間繁樹「西表島自然誌」(晶文社)、戸井昌造「沖縄絵本」(晶文社)、以上Bookwebから本日までに完納。近頃買った本は他に、池澤夏樹「クジラが見る夢」(新潮文庫)、MarineDiving8月号別冊「ダイビングスクール」(水中造形センター刊、400円)。MarineDiving8月号別冊安価なれど、美麗な水中写真や珊瑚礁のなりたちなどうまく説明してあってお買い得。家の近くにもダイビングスクールあることを知る。池澤夏樹「クジラが見る夢」、ジャック・マイヨールとの行状記。一読こころ洗われる。などなど・・・。珊瑚礁の体験いまだ感動さめやらず、自転車で通勤の道すがら、「生と死の循環」というコンセプトに至る。生態系、通常は食物連鎖とか弱肉強食などとくくられてしまうけど、生と死はお互いに許容しあって、壮麗な循環をなしているのではないか、という直感。この「死」には、無機物である「二酸化炭素」も含まれており、人間の「個人としての死」を包容する思想ともいえなくもない。もっともこんな風に書きなぐっては、得られる共感もないだろうけど、ボクはね、あの珊瑚礁のなかで死ぬなら本望と思ったね。池澤夏樹(福永武彦の長男)の「骨は珊瑚、眼は真珠」(文春文庫)いまはほんとうにこころから理解できるよ。

 息子2人が、ブラックバスの稚魚を隣駅の店から買ってきた。600円也。なんとエサにメダカを買ってきたのにも驚いたが、そのメダカが毎日一匹一匹と減ってゆくのは心穏やかでない。生態系の宿命といっても人間がしつらえている分だけこれはいびつでいかがわしいではないか。可愛くないやつと思っていたが、母親の実家に2人とも帰ってしまい、自然と留守番の当番になってしまっては、飢え死にさせるわけにもいかない。窮余の策として、近くの金魚屋から冷凍赤虫(300円)を買ってきた。チョコレートのようにぱりっと折って解凍すると、なんとまあ、釣具屋でみる生きた赤虫とそんなに違わない赤虫がぶわあーとでてくるではないか。そんな赤虫を喜んで食べるブラックバス稚魚もけっこう可愛いなと思うのであった。infoseekで「ブラックバスの飼い方」で検索すると、あるはあるは、釣りが昂じてブラックバスを飼育している人のページが結構あるよ。同好の士の必ず見つかるところがインターネットコミュニケーションの素晴らしいところだ。

 日本国内のありとあらゆる検索サービスに一括して登録代行してくれる「一発太郎」というサービスを個人で運営している人がいる。こちらはツタヤで立ち読みした中公PC新書(後記:後日購入 魚住しょうじ「ホームページ簡単作成マニュアル」)で知った。もって徳とすべし。

 沖縄関連、しばしば新聞でも眼にする。日経新聞夕刊の大好きなコラム「鐘」(何日号か忘れた)では、ボクの好きな本「沖縄の人(ウミンチュ)」(前述)を枕に南島の若者に言及している。文化面のコラム「文化往来」((何日号か忘れた)では、ユリイカ8月号の「島尾敏雄特集号」を紹介し、最近の学の成果を紹介する。どちらもすぐれたコラムであり、ボクがなぜか日経新聞を好きな理由だ。

 漫画では、週刊モーニング、うえやまとちの「クッキングパパ」沖縄特集。ビッグコミック、同オリジナル。変わらず谷口ジローのまんがや山本おさむの「オーロラの街」に惹かれる。谷口ジロー氏、戦後史の空白にも言及しつつ、たいへんなプロットの作品をものすつもりなりや。

8月16日(日) 荒川への旅

 息子2人と自転車で荒川までいってきた。といっても決して近いわけではない。今朝方地図を眺めていたら、けっこう近そうだなと気がついて息子をそそのかして出かけた次第。自宅のある練馬区高野台から、笹目通りをずーっと北上して、自転車で約40分。笹目橋のあたりまで。時間は大人にとってはさほどではないが、下り坂や上り坂が多く、子供にはきつかったみたい。彩湖(荒川調整池)の湖畔にできたという「彩湖自然学習センター」に立ち寄るのと、川釣りの様子を調べるのが目的だったが、なんと悲しいかな、反対岸に渡る橋がないではないか!高速道路はあっても人間がてくてく渡る橋がないとはなんとも不便なことだ。結局河川敷をサイクリングして川の様子や釣り人を観察して帰ってきた。暑さと疲れで写真をとるゆとりもなかったよ。なにが釣れるのか分からないが、今度また出直してこよう。川岸からでかい蟹やちいさな魚の群、そして川底には黒っぽい魚の群が見えた。

 今日は一日このページのメンテナンスをした。振り返ってみると、つくづく目的のない読書だなと思う。目的のない読書は「罰せられざる悪徳」なのだといううしろめたさがどこかにある。数学Bの教科書で複素数平面を学ぶ高校生のほうがよっぽど清潔で純粋ではないかとも思う。ヴァレリー・ラルボー「罰せられざる悪徳・読書」(版元不明)、22年前に渋谷の旭屋で背表紙を眺めただけだが、この表題のことを時々思うのである。

 近くのビデオ屋で「青幻記」(成島東一郎監督)を探したが案の定ない(あるわけないか)。一色次郎の原作も新刊では入手不可能らしい。(Bookwebで調べた限り。)昔(23年前)角川文庫版を弟が買ったことがあるので、あんがい実家に眠っているかもしれないが・・・。「青幻記」は僕の南島への憧れのきっかけになった映画で、昭和49年に鹿児島の天文館で観た。沖縄本島・八重山諸島への旅行以来、ちょっと気になっている。

8月18日(火) 閑話休題

 22年前、渋谷の三省堂書店(東急プラザの上の階)で、滝口修造「地球創造説」(版元不詳)を手に取った。なんと黒いページに黒い活字で氏の詩は書かれていた。だけれども、凸版印刷で印刷された詩の一文字一文字は光にかざすとインクの光沢と紙のへこみでうっすらと、いやはっきりと認められるのであった。オフセットよりも凸版の優れているのはここでわかる。けれど時代はオフセットに移行し,岩波文庫ですらのっぺりとしたオフセット印刷に嬉々としている。昔の岩波文庫は、印刷会社が精興社でも理想社でも三陽印刷でもほんとうによかったよ。それにくらべてなぜか最近の岩波文庫はのっぺりとしているな。最近の岩波文庫を買い求める気になれないのはこのせいかとも思う。

 マッチよりも使い捨てライター・・・・・・・・映画よりもVHSビデオ・・・・・レコードよりもCD・・・・・MacintoshよりもWindows95・・・・・凸版印刷よりもオフセット印刷・・・・・・・銀塩写真よりもデジタル画像・・・・。ベンヤミンが第一次複製技術に対して、芸術が本体持つ霊的な光すなわちアウラを失うことを嘆いてより早半世紀。いまや第二次複製技術はデジタルの美名のもと第一次複製技術を席巻しつつあるが、第二次複製技術はその端緒において精密さ・精緻さにおいて第一次のそれに劣る。約10年前より僕はこのことを嘆きかつ危惧しているがだれもそんなことに拘泥しない。

 Adobe PageMillおよびAdobe PhotoShop LEを購入してホームページをつくってる。気に入ってるのだけど、マニュアルがついてない。わずかに導入のうすぺらい小冊子が付属するのみ。なーんて書いたらAdobeにおこられるよ。PDFファイルで合計数百ページにもわたるフルカラーのマニュアルがCDについているのだから。なるほど、安価かつ便利。4色でこれほどのマニュアルを2冊つけたらとても実売8000円でこんなソフトの同梱は無理だろう。よくわかっているよ。でもね、付箋紙をつけたりマーカーでなぞったり鉛筆で書き込みしたり、手触りを楽しんだりひとに見せびらかしたり重さに感激したり匂いを嗅いだり枕にしてうたた寝したり(戦争中の稲垣足穂における辞のように)怒って壁にぶつけたり(若き日の高橋和己における論語のように)、そんなことはなんにもできない電子の本さ。そこに寂しさを覚えるのは自分だけなのかしら。綴じた糸がぼろぼろになるまで本を学び尽くすこと、それを古代の中国人はなんていったか、辞書でみつけられないよ。

 今夕の日経新聞夕刊、プロムナードというコラムの久世光彦の文面白い。このひとの文章はほんとうに色っぽい。織田作之助の文章のうまさを書くと、織田作之助がほんとうに読みたくなってくる。このひとの感性には共感できる。このひとの老いへの静かなおそれとあこがれが今や自分にも理解できる。

 「沖縄絵本」読了。「西表島自然誌」半ばまで読み進む。この2冊なかなかいいですよ。ゆるやかで静謐な読書がいまの自分にはふさわしい。

iMAC登場でMACの雑誌も活気づくなり。本日18日はパソコン雑誌コーナーiMAC一色なり。Steve Jobbs自分でつくった会社を追放され、なにくそとNextで全世界を驚愕させ、そしてあのToy Storyの会社で大儲けして英気を養い、暫定CEOなんていいながらAppleをしたたかに再生させたなり。

8月22日(土) 日々の雑感

 日経新聞の読後の雑感少々。

1 小学校の先生の言葉遣いが、やくざ口調か妙に優しいかのどちらかであるという。そのせいか、子供の言葉遣いも乱れているという。うなづける意見だ。教師の子供に対するや、なぜか露悪的な下品な言葉遣いになるということ、本当にやだね。公立の教師でも塾教師でもそんな人間は確かにいるんだろうな。

2 山根一眞氏、データのバックアップにCD-Rを大いに活用すとのこと。これまた納得。

3 高等学校の履修課程が大学受験のために歪められて、マイナー科目の存在意義が年々薄れていると警告。カリキュラムの多様化がかえってあだになっていると。これまたつくづく納得。自分が高校生のころは、地学であれ地理であれ生物であれ、どの科目も真剣に勉強したものだが・・・・・。

 吉本隆明他「琉球弧の喚起力と南島論」(河出書房新社)。沖縄で開かれたシンポジウムの記録とのこと。なにやらすごそうな本だ。Bookwebで見つかるも、もうちょっと買いたい本がでてきたら一緒に注文しよう。

 22日付日経新聞夕刊トップは、インターネットを使った中古車販売好調との記事。妙に頷ける記事だ。ぼくも書籍やCDやら電報やらンターネットを通じて購入・申込しはじめたところ。抵抗はあまりない。固定のコストがかからないから、旧態然とした業界にもやがて風穴があいてゆく予感がする。おおいに結構ではないか。

 と書くところまでは、一応躁。でも心情のベースはこのごろ鬱だ。(鬱という字を黒板で書けば、心という字の5倍は時間がかかる。これが黒板というメディアが200年もの長きにわたって人気がある理由のひとつだ。PCならば、平等に正確にコンマ何秒でふたつの漢字をディスプレイに表示するだろう。これが心地よいとすればそれは教える側の傲慢だ。黒板は教えるものの思考のスピードや思考のプロセスをつぶさにゆっくりと伝えてくれる。書き順まで。アナログに学ぶべきところが実は今もたくさんあるのだよ。)夏の終わり、自分はこのままゆっくりと老いてゆくのかと感傷的な寂しい気持ちになる。「さらばわれらが短き夏の燦めく光よ」といったところか。読者諸賢よ、お笑いあれ。

8月25日(火)

 「英語の感覚」(上下巻)(岩波新書新赤版)、やっと購入できた。上石神井駅そばのCDビデオ付きの本屋で。今ゆっくり読んでいるところだ。英語と日本語にまつわる俗説、いわく日本語には主語のない文が可能である、日本語は動詞が最後にくるので先の戦時下の通信で不利だった、云々。本当のところがこの本で分かりそうだ、そして、英米文化と日本の文化の発想法の違いもこの本から学ぶことができそうだ。なーんて殊勝なことを書く。

 久世光彦の例のコラム(日経新聞夕刊)。今晩も掲載されていたので早速読む。久坂葉子、向田邦子おふたりの愛用の灰皿の話。要約すると趣旨が乱れるので、文章の末尾を引用する。

 「久坂葉子は、まだ焼け跡の匂いの残る戦後の夜空に、激しく、眩しく現れ、あっという間に流れて消えた<光>だった。/その人の弟さんの川崎芳孝さんから手紙をもらったのは、一年ほど前のことだった。どこかの雑誌に、私が久坂葉子への思いを書いたのをお読みになったらしい。私は小さな箱をもらった。開けてみると、稚ない絵のある手焼きの灰皿だった。」

 中原中也の実弟、伊藤拾郎氏は生きて福島泰樹氏と一緒に渋谷のジャンジャンでハーモニカで中也の詩を詠唱した。5年くらい前だったかな。その当時日経新聞に連載されていた福島泰樹のコラム(94?年2月23日夕刊)でこれを知ったのと、NHKFMの日曜昼の番組で拾郎氏のハーモニカを聞いたのがほぼ同じ頃だったと記憶する。ひとつの詩は、生きるのだ。数々の現世の不幸を乗り越えて・・・・・。文学の栄光を、まるでホラチウスのように誇らしく思う一瞬(ほんの一瞬)である。

 すきな詩のこと。ニコラス・ブレイクとはC・D・ルイスのペンネーム。その「野獣死すべし」はハードボイルドの古典だ。(いやもって英国の学者は多芸なひとが多いね。)そのなかに引かれたコベントリ・パトモアの詩を紹介する。(早川書房のミステリ全集からの引用だが、訳者の方のお名前不詳、すいません)

彼は置いた、手の届くところに

数取りの箱と赤い筋の入った石を

砂浜ですりへったガラスのかけらと

六つ、七つの貝殻を

ブルーベルの花を活けた瓶と

二枚のフランス銅貨をきちんと並べて

彼の悲しみの心よ安かれと

 さしもの翻訳大国日本でもコベントリ・パトモアの詩集は訳出されていない(ようだ)。(アンソロジー除く) どうです、すてきな詩じゃありませんか?

8月27日(木)

 詩人田村隆一氏、逝去。老いて矍鑠との印象が強かったのでもっとご高齢かと思っていた。合掌。

 殺伐たる日々が続く。勉強に、そして自己実現に悩む日本津々浦々の高校生・中学生・小学生のたったひとりでも救済することができれば、しかしこの殺伐さは救われるのなり。しかし我々はひとりよりも10人、そして10人より100人を、救済せねばやまぬなり。宮古島のそして石垣島のそして沖縄本島のT衛星予備校生のみなさん、お元気ですか?

 石垣島の民宿とのすくで夕方7時(日本標準子午線より遙かに西にあるので、未だ明るい)に聞いた「えんどうの花」は心に沁みた。分かっていただけるだろうか、シャワーを浴びながらボクは泣いたのだった。その哀切、その郷愁に・・・。歌の名は当然わからない。民宿のかたに聞こうと思って恥ずかしく、とうとう聞かずじまいで上京。練馬も吉祥寺も、そのままではボクの心を引きつけぬ、形骸と化してしまっていた。分かっていただけまい、その悲愁。自由闊達な武蔵野文化も、魔都東京の数々の表層文化も若人裁度の大義も、もろもろが色あせてしまっていた。24年前に聞いた、ヤマトンチュへの軽侮のことば(映画「青幻記」にて)が耳に思いおこされた。さてある朝、「石垣島閑話」というウェブにめぐり会う。(前述)掲示板に気紛れに書き込んだメッセージにSさんという奇徳のかたのメッセージ。そうして先ほどの「えんどうの花」のウェブにめぐり会うことができ、インターネットで注文とあいなった。うれしかった。希少なものもそうでないものも、幾分か平等に扱われるインターネット文化。その恩恵と貴重を人類は忘れてはいけない。

 今日、職場に届いたCD。仕事をしながら「花」「えんどうの花」を何十回も聴いた。仕事は快くなり、幾分か救われ、幾分か涙腺はゆるんで困った。・・・。「花」、数年前CMで聴いたり久世光彦の本で読んで気になっていたけど、西表島の観光バスで聴くとすべてが理解できた。それよりもなによりも、由布島の牛車のおじいちゃんが歌ってくれた三味線のうたがこころにのこるのだった。ボクはあのおじいちゃんと、もう一度会えるだろうか?感傷的になるけど、でもおじいちゃんは今日もまた、そして明日もまた、観光客相手に「」を歌っているだろう。朴訥に朴訥に。彼の生活の愉しみと悲哀を、その矛盾を、読者諸賢よ、分かっていただけるか?

8月30日(日)

 夏休み最後の日曜日は、一日中雨であった。各地で水害相次ぐ。そういえば東京が大雨に見舞われた年があったなとテレビの報道番組で思い出した。5年前とのことだ。もうそんな昔なのか?いやそれともまだ5年しかたっていないのか?この10年間の思い出は様々に錯綜していて、正確な年を思い起こすのが困難になっている。歳をとるとは、ではない。なにはともあれ充実した人生の日々で忙しいゆえの忘却と信じたい。さてそれで、山口瞳「年金老人 奮戦日記」平成5年のくだりを読み返したら、ちゃんと8月終わりのくだりに都心が水に没した記述がみつかった。作家と同時代をいっしょに生きたことをしみじみ懐かしく思うのである。この「男性自身」日記版は、「(不詳)」(手元に資料なし)から始まり「年金老人」を経て「還暦老人極楽蜻蛉」で完結するのだが、なかなか本屋にない。現在は版元(新潮社)品切れらしい。数年前池袋の西武ブックセンター(だ〜いすきな本屋)でみかけたとき買っておけばよかった。「極楽蜻蛉」ももう一冊も、図書館で借りて読んだけど、ぜひとも手元において読みたい本だと思う。大岡昇平「成城だより」全3巻は、昭和55年の正月から丸6年の長きにわたり昭和61年の2月に完結している。このふたりの文人のおかげで私の成人後の多くの年月を作家と共有することができた。このことに今淡い喜びを感じるのである。

 本日の日経新聞書評は矢内原伊作による父・矢内原忠雄の伝記(未完の大著、みすず書房、5800円)、城山三郎による永田耕衣の評伝「部長の大晩年」(朝日新聞社、1300円)の紹介などで充実していた。永田耕衣は定年時三菱製紙の製造部長兼研究部長だったよし。神戸は須磨の自宅で阪神大震災に遭遇、からくも九死に一生を得、最晩年は老人ホームで悠然たる日々をおくったという。

 子供の夏休みの終了とともに、とうちゃんの夏も終わる。いきつけの本屋は、南田中の「ツタヤ」、高野台の「くじゃく書房」という清貧読書の記録も一応の完結としたい。長い間のご愛読を感謝します(だれも読んでないって)。

1998年夏号 完

 

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