5月4日(土) 曇り

シカシワタシハコノ地ニ住ミ、友ヲ忘レ友カラモ忘レラレテ、沖ノ彼方ニトドロクぽせいどおんヲ眺メテイタイ ホラチウス

連休といってもどこにゆくあてもない、静かな毎日である。連休中にやや難しい仕事が残ってはいるものの、基本的には熊襲さんに倣って読書三昧の連休としよう。

●半年間読み継いできたSimon Singhの"The Code Book"が残すところ10ページ足らずになった。RSAを代表とする公開暗号鍵の開発秘話、量子暗号の話題など、暗号の世界は現代に至ってますます興味が尽きない。公開暗号鍵の数学的なアルゴリズムも巻末の資料で初めて理解できた。どうもこのシンさんの筆は、理系天才の知的格闘・知的懊悩を書くときにますます冴えるようだ。

●科学読み物を原書で読むという、英文速読の練習を兼ねたそれなりに有益な習慣をこのまま維持したいので、先日日経書評欄で話題になっていAmir D. Aczelの"The Mystery of the Aleph"(邦訳、 「無限」に魅入られた天才数学者たち、早川書房)をAmazonに注文しておいた。(ちなみにアクゼル氏の前著『天才数学者たちが挑んだ最大の難問』(早川書房)は以前熊襲さんに頂いた。) Amazonの買い物かごに1年近く入ったままのMartin Davis"The Universal Computer: The Road from Leibniz to Turing"にも触手がのびたが値段が高いので今回は見送り。昨日は石神井公園MICの新刊半額コーナーで、シルヴィア・ナサー『ビューティフル・マインド』(新潮社、1360円)を見つけたのでこれも買っておいた。ご存知、ラッセル・クロウとジェニファー・コネリーの好演で話題になっている同題の映画の原作である。アインシュタイン・ノイマン・ウィーナーら、煌くばかりの才能がつどうプリンストン大学で頭角を現し、だがその後30年以上も精神の病に苦しめられて、もはや幽霊としか呼ばれない男がいた。天才数学者ジョン・フォーブス・ナッシュ。奇跡的な回復を遂げてノーベル賞を受賞するまでの実在の天才数学者の数奇な運命。(帯より引用) というわけでこちらも昨夜からぼちぼち読み始めたところである。

5月6日(月) 晴れ時々曇り

昨日今日と自宅のPCでお仕事をした。なんだかいまいち気の晴れない連休だった。XMLやLinuxにじっくり取り組もうと思っていたが、案の定ずるずると過ごしてしまった。今夜は近くの体育館で家族で卓球に興じた。数年ぶりのスポーツ。

シルヴィア・ナサー『ビューティフル・マインド』。自分としては珍しく速いペースで読み進み、今170頁あたり。第二次世界大戦前後のアメリカの情報理論・コンピュータの急激な興隆には、ファシズムと人種迫害が猛威をふるったヨーロッパから逃れたユダヤ系の天才たちの貢献が大であったことを改めて確認した。数学・物理学・情報理論・コンピュータサイエンスにとどまらず、文学・音楽・美術など芸術の幅広い分野で、アメリカに逃れたユダヤ人・ロシア人たちのその後の活躍について。また、ロックフェラー財団等は、20世紀初頭から、ヨーロッパの学芸の新たな台頭に比して米国の大学教育が実学(職業教育)に拘泥していることに危機感を抱き、数学や物理学などの基礎研究に多大な基金を提供しはじめる。このことがプリンストン大学などの新興勢力の急速な進展をみた。いっぽうで、これら純粋科学は皮肉なことに戦争に際して実学よりもはるかに大きな貢献をすることになる。暗号解読・弾道計算・ロジスティクス戦略・通信工学。マンハッタン計画に従事したアインシュタインやオッペンハイマーはその最たるものだろう。
そして戦後の冷戦体制。朝鮮戦争、赤狩りの嵐。RAND研究所。応用数学者たちはいやおうなしにこれらの騒擾に巻き込まれてゆく・・・。

5月11日(土) 曇り 人の世の歓楽

TSUTAYAから借りてきたCDで、「サルビアの花」(もとまろ)や、「喝采」(ちあきなおみ)などを聴いた。ついでにTVドラマ高校教師の放映のときに買った森田童子の「僕たちの失敗」を聴いて涙ぐんだりした。森田童子研究所。つまりは過ぎ去った青春の感傷にひたった訳。北の国に住む懐かしいひとのことを想ったりした。

このところ、人の世の歓楽から遠く離れてしまったことがさみしい。・・・・

連休中から取り組んできたやや面倒な仕事が一段落した。Acrobatのことを続けて研究中だ。有益なサイト。アクロバット活用メモWindows FAQ。VideoOnDemandのプレゼンがF君、H君の尽力で奏功しつつある。

5月14日(火) 曇り 荻窪小旅行

考えてみれば上京して27年にもなるのに荻窪南口の古書店を知らぬままというのも迂闊な話だった。言い訳めくけど、南口には勤め先の関連会社があって、仕事で時折荻窪にゆく。駅につくと心は仕事モードになっていて、そのまま北口の改札口に向かう。そんな行動パターンがかえって南口界隈の散策の機会をうばっていたのだった。先週末のかねたくさんのレポート(こちら)を拝見して心が躍った。風立ちぬ!岡崎武志さんの『古本でお散歩』(ちくま文庫)で土地勘をつかんで、昨日の昼休みに荻窪小旅行を決行(笑)。

なにせ時間は1時間しかない。職場から駅までそして吉祥寺から荻窪まで、計15分。荻窪南口に降りたった段階でもうタイムリミット45分というありさまだ。仲町商店街を一路「古書 銀河」へむかう。店構えはそう大きくなく、店内も広くはないが、なるほど、さすが、かねたくさん・岡崎さんが褒める店だけのことはある。ドイツ文学の棚には、ホフマンスタールの小コーナーまであって、河出の選集第3巻(懐がさびしいので次回買おう)の隣には、ヴロッホ「ホフマンスタールとその時代」(筑摩叢書)や昔の講談社の文学全集の1巻で未完の「アンドレアス」を収めた巻などがていねいに蒐集されている。この一角だけでも、古書・銀河の誠実さがしのばれるというものだ。

ここで、かねたくさんにみつけていただいた吉田健一『書架記』(中央公論社、昭和48年、1800円)を購入し、店を出たところで既に30分近く経過。ああ時間がない。次は仲町商店街の途中にあった「竹中書店」。構えに気品があり思わず居住まいを正したくなる店だ。う〜む、常日頃吉祥寺の古本屋にはお世話になっているのに申し訳ないが、格が違うなあ。店内をざっと見回し、次回訪問を心に約して店をでた。

次に、仲町商店街を駅に戻り、新宿方向へ。岩森書店はすぐみつかった。なるほど、店の奥のショーケース圧巻なり。ひやかすにはもったいない店だな。さらに新宿方向に線路沿いに1分。ささま書店。平日の昼間というのに店内には眼光鋭いお客さんがわんさか。あまりにも時間がないので、外国文学の書棚をざっと閲覧するのみだが、たとえば外国文学の棚にはボードレール関連の訳書がずらりと揃って圧巻であった。

昨日はあまりにも時間がなかった。また来よう。

※最近買った本、「第2種情報処理試験完全合格テキスト」(高橋書店、100円)。次男の中学入学祝いに、英和・和英・国語の各種辞典計5,400円。

5月18日(土) 

相変わらずの雨模様。今日は高校の同窓会総会&2次会(神田)。

武田泰淳『評論集 滅亡について』(岩波文庫、400円)@りぶる・りべろ。中国出征後の1940年に書かれた『支那文化に関する手紙』、『滅亡について』など初期の評論から亡くなる直前のエッセイまで代表的な評論を収める。井伏鱒二・中島敦・三島由紀夫・稲垣足穂などの作家論も収められていて泰淳の視点のフレキシブルさが窺える。PROJECT KySS著『貼って使えるXMLデザインブック』(秀和システム、2400円)、帯の宣伝文句、「(XMLを)知らずに使える超サンプル」というのがふるっている。ともかくXMLを実際にHPで使ってみたいひと向き。アレン・カー『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』(KKロングセラーズ、900円)、アマゾン上であまりにも皆激賞している(=禁煙に成功している)ので、本当かしら、と。

5月19日(日) 曇り 荻窪探検パート2他

●昨日は、九段の如水会館にて年に一度の高校の同窓会総会。基調講演は、原田正純氏(熊本学園大学教授)の生涯にわたる水俣病との闘いについて。氏は私よりも22期先輩だから、御歳68歳ということになるだろうか、年齢を感じさせない活力あふれる行動力と明晰な講義内容に脱帽。高校生のころだったか当時の主著『水俣病』(岩波新書)を読んで以来、心の隅でずっと応援してきた方である。といっても当方は、水俣病をはじめとする公害のもたらした難病について、なんらか現実的に関わってきたわけではない。氏は、その間もずっと、日本はもちろん、南米・アフリカ・ベトナム・カナダなど、世界各地を巡っては、世界中の公害病について、現地の民衆とともに闘ってきたことを、昨日はじめて知ったのであった。同窓生のF君は、今回の講演にあたり、同じく岩波新書黄色版の『水俣病は終わっていない』を読んで予習して臨んだとのこと。総会のあとは、神田のKさんの事務所にて同期のみの2次会。2次会といっても、これが延々6時間も続いた。みなテンション高し。それはそうだ、高校卒業以来27年ぶりの久闊というのに、昨日あったばかりのように話が弾むのだから。もっとも、わたしは、医学・法曹・金融・行政など各界で活躍する同窓生諸氏を前にしてわが身を振りかえり思うことも多かった。

●そうして今日は、同じく高校同窓のU君一家と吉祥寺で待ち合わせ。勤務先の予備校入学を検討している高校生のお嬢さんの入学ガイダンスにお付き合いした。講座を検討することかれこれ一時間。そうなんだ、みな中学生や高校生を娘や息子にもつ歳になったのだった。ちょうどそのお嬢さんと同じころ、U君と付き合っていたわけだから、30年近くを経て、奇しくも世代交代にめぐり合わせたことになる。夢と希望にあふれたお嬢さんを目の当たりにして再び感慨にひたったのだった。

●吉祥寺駅でご一家と別れたあと、先週駆け足で見学したのみだった荻窪古書街に再びでかけた。仲町商店街竹中書店の店頭本で、森内俊雄『氷河が来るまでに』(河出書房新社、300円)を発見。1990年の読売文学賞受賞作で、当時、新聞の書評で大いに関心を抱いた作家だ。買いそびれて以来十余年、偶然の再会に感激。作品梗概はこちら。不思議なことに、次に訪れたささま書店では、同じ森内氏の主要6作の単行本が整然と並べてあるのに出くわした。十余年、わたしにとっては幻だった作家の新旧主要作品とあっという間にめぐり合ったことになる。このようなめぐり合いがあるから古書店めぐりは楽しい。岩森書店では、高山文彦『火花 北条民雄の生涯』(飛鳥新社、500円)。ささま書店では、店頭本でLaforgeの『なげきぶし、初期の詩』、Mallarme『イジチュール・ディヴァガシオン・さいころ一擲』(ともにGallimard、各100円)。今日は古書・銀河をふくめ先日の4店を再訪したことになるが、どの店もやはりすばらしい書店であった。特に外国文学が充実していると思う。中央線文化の面目躍如。 他に昨日、神田三茶書房にて、『江戸怪談集 中・下』(岩波文庫、各300円)、Kさんからの恵贈本は、片桐樹童『吉備真備 陰陽変』他多数。

●DVDほか。『ハリーポッター』『スパイキッズ』、いずれも家庭でみる分には安心して見られる作品で好感度良。

5月22日(水) 晴れ

久しぶりに晴れ間が広がっている朝だ。昨日は帝国ホテルでしごとがあった。夕刻、有楽町界隈をぶらぶらした。同僚のF君と喫茶店を探したが、コーヒー1杯600円じゃあねえ、金の無駄。ふたり噴水の近くに腰掛けて近くのコンビニで調達したウーロン茶を飲んだ。

5月23日(木) 曇り 『「書く」ということ』

昨日一昨日と有楽町。今日は池袋要町にe-learning系の開発会社訪問。気ぜわしい毎日だ。じっとりと汗のまつわりつくような湿気の多い車中では本を読む気にもならない。

かわうそ亭さんのところで石川九楊氏の『「書く」ということ』という本が話題になっている。そこに書いたことの続きだが、これは一般論として書くのであって、わたしは石川氏の本は未見のままである。

ワープロ、というかインプットメソッド一般を嫌う著者というのは確かにいる。自ずと原稿は手書きである。わたしの経験の範囲でいえば、そういう著者の原稿は、達筆というかくせ字というか、まあ、世間的にいえば雑な原稿である。細かい指定をていねいに書き添えているのは世間で苦労した人間であって、おおかたの著者はそうでない。己の玉稿の意のあるところ、編集者風情は当然のこととして汲み取るべし、といわんばかりの原稿の束、である。その種の原稿は、当然のこととして、入稿専門の業者に送られ、入稿専門の人間がワープロに打つ。判読しがたい字、解釈しがたい指定。これらを、その道の専門家が、解釈をばする。初校がはいる。大幅に赤が入る。全面書き換えがあったりする。再び入稿である。再校。大幅訂正。再度入稿。三校。細かい修正がびっしり入る・・・・。以下同文。

手で書くことを卑下するつもりは毛頭ない。手は外部の脳髄である、といったのはカントだったか。手書きのスクリプトにはテキスト生成の歴史がある、との鋭い指摘は、中原中也の原稿を解読した佐々木氏の至言である。

それらをふまえたうえで敢えて書くが、結局、ワープロ入稿を嫌う著者は、ていよく、業者、というか、入力をするスタッフを、外部の脳髄として、酷使しているにすぎないという側面がある。これはある種の労働疎外なのだ。所詮。

『「書く」ということ』、とりわけ日本語で書くということの本質の所為を、問うことは正しい。つきつめていえば、明朝体のフォントはいったいどういうことなのか、というもんだいにまでいきつく。活字で言表することの、本質までいきつく。それはいい。(疲れたので以下明日)

5月26日(日) 晴れ 『「書く」ということ』(続き)

続きを書こうと思ったが、なにしろくだんの本を読んでいないので話にならない。以下、メモ書き。

・手書き(書・筆記用具・テキストはどのように生成されるか、その現場・テキストはどのように受容されるか)→活字(凸版・オフセット・日本語にとってフォントとは何か?)→コードとしての文字(入力方法・漢字コードの問題・汎-漢字文化圏のなかの日本の漢字・Unicode問題・漢字の歴史・漢字文化とは何か?)

・参考サイト 鈴木功氏 http://www.typeproject.com/ 句読点研究会ニュース 第6号


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高山文彦『火花 北条民雄の生涯』(飛鳥新社、1900円+税)

高山氏は1958年生まれのジャーナリスト。近刊には、『「少年A」14歳の肖像 』(新潮文庫)がある。
本書は、昭和12年に結核で24歳の生を終えたハンセン氏病の作家北条民雄の短い生涯と川端康成の交流を丹念に追った本。存命の関係者からの証言や当時の書簡にもとづき、当時から現在にいたるハンセン氏病患者をめぐる<医療のファシズム>の歴史についても併せて書く。
川端康成が北条民雄を世に知らしめた貢献者であること、作家の本名をついにあかさぬままであったことは、文学史の周知の事実である。今なお版を重ね続けている角川文庫版『いのちの初夜』 巻末の年譜では、大正3年某日某県に生まれる、とだけしか書かれていない。本名の特定・出生地などは堅く秘匿されてきたのだ。今なお明かされていない。他でもない、遺伝が原因の業病だと信じられていた当時、患者をだした一家は村八分同然の扱いをうけていた。作家の本名をあかすことで災禍が縁戚にまでおよぶことを川端は危惧したのである。

北条民雄が短い生を終えた病院は今も現存している。東京都東村山市の多摩全生園である。いまもなお、老齢の患者が余生をおくっているという。いまでこそ東京都下の住宅地だが、昭和初期のその土地は人家疎らの農村地帯だったという。隔離同然にそこへ送り込まれ、人権を蹂躙されて、いきる希望を失ってゆく若い作家は、意を決して当時既に一流作家の道を歩みつつあった川端康成に作品原稿を送る。なにしろ病院の検閲がある、信書のたぐいすら消毒なしには病院をでることすらできなかった時代のことである。(事実をいえば、その程度のことでは絶対に感染しないのだが)届いた手紙を忌むように破棄することすらなんら不思議な仕打ちではなかったにもかかわらず、川端は一読北条の作品の理解者となり、陰に日向に、北条を庇護することになる。 小林秀雄が主宰していた雑誌「文学界」(のちに文芸春秋)の掲載に尽力し、第2回文学界賞の受賞をもたらすに至る。

そんな川端と北条だが、実際に逢ったのはたったの2回しかない。一回目は昭和11年の冬、鎌倉の川端自宅近辺で。自宅を訪れるよう川端は勧めるが、病気の気兼ねのために北条は自宅そばで作家と邂逅する。二回目は昭和12年12月、小林武(東京創元社)とともに弔いにかけつけた川端は荒涼とした霊安室の片隅で北条と再会する・・・。

力作である。北条民雄のみではない、病魔に冒される危険を賭してまで北条を援助しようとした川端康成についてもわたしは深い感銘を受けた。いまわたしは、川端の、特に初期の作品世界へ強く惹かれている。川端康成の、このデモーニッシュなまでの情熱と愛情は、どこからくるのかと。

●関連サイト
高松宮記念ハンセン病資料館

 

 

ローリング『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(静山社、1900円)は息子たちのために。
 川村二郎『アレゴリーの織物』(講談社、1300円)@草思堂。ブランチャード&ジョンソン『1分間マネージャー』2冊(ダイヤモンド社、100円×2) @BookOff高野台。

5月28日(火) 晴れ

高山文彦『地獄の季節 「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所(新潮文庫、280円)、同『「少年A」14歳の肖像』(新潮文庫、200円)@外口書店。

5月29日(水) 晴れ

今日は珍しく平日の休み。忙中閑ありだ。深夜勤務のあとで眠い。尾久土正己『インターネット天文台』(岩波書店、100円)@BookOff。


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高山文彦『地獄の季節 「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所(新潮文庫、552円+税)
高山文彦『「少年A」14歳の肖像(新潮文庫、400円+税)

北条民雄の評伝で感銘を受けたので、高山氏の最近の著作を買い求めてみた。

阪神大震災とオウムの一連の事件が1995年、そしてこの本で扱われているおぞましい事件が、日本全国を震撼させたのが1997年の5月のことである。それからもう丸5年になるわけだ。月日の流れの速さを痛感する。

丁寧に取材し、丁寧に書かれたルポルタージュである。事件の発端からすぐに、高山氏は神戸は須磨のニュータウンに足を運び、事件の現場や、新旧の街が対峙する街のすみずみで、その街にすむ人々の歴史をつぶさに調べながら事件を追う。巻半ばで衝撃的な犯人逮捕の報に接する。

おぞましい犯罪を犯した少年の、父と母、そのまた父と母の生きてきた歴史。そこから浮かび上がるのは、離島から神戸へ集団で移住してきたひとびとの、ながい苦闘の歴史である。その歴史と、少年の救いがたい犯罪の接点をもとめて、著者は、南西諸島の沖永良部島へ、鹿児島北部の大口市へとルポを続ける・・・。

少年の病理の原因が理解できたか?そうだともいえる、だとすれば高山氏の力量による。理解できないともいえる、誰しも少年の日々に一度はいだく残忍な心情(思春期前期の凶暴な欲動)と、人を実際に殺すという行為の凄惨との間の隔たりは容易に超えることのできない深淵なのは間違いないから。

文庫版の解説で宮部みゆき氏が何度も確かめるように書いている。「これは、簡単に解ってはいけないことなのだ」と。当事者でない我々が、当事者である労苦を背負うこともなしにしたり顔に批評したり理解してはいけない、人間の闇の深淵が存在するのだろう。

思春期のこどもを持つ親としてはいちいち身につまされることも多い本だ。そもそもこうして、これらの、ある意味では重たいしんどい本を、読むということは、私もまた親として忸怩たる部分を持ち、悩んでいるからに他ならない。

一読に値する本である。

 

 

 

5月30日(木) 曇り 松浦寿輝批判(^^;)

日経夕刊のプロムナードというコラムは、最近も水原紫苑や井坂洋子(詩人)などの、およそ経済新聞の夕刊らしくもない、おもわずはっとするほど超越的でありながら、さりとて読む人の日常を必要以上に揺るがしたりはしない、つまりはとても上質の文の多いコラムなのだが、アニハカランヤ、毎週木曜日を担当されている、かの松浦寿輝氏のコラムが毎週毎週、いまいちである。今夕のコラムは、「朝食」と題する小文。「朝食が楽しみなのである」と始まる。なんだか小市民的でないの。このあと、洋風または和風の朝食談義が延々と続くのだが、ここらあたりは割愛。終結部に氏は書く。括弧内わたしの注。「わたしはあまり高尚なことは考えない俗な人間なので(人、こういうのを韜晦という)、人生の幸せというのは窮まるところ、朝食が旨いといったようなことに尽きるのではないかと思うことがある。(過去のこの種の文人のパスティーシュめいて、なんだかねえ)」。最後の結論がまた、いただけない。「老いと死へ向けて、旨い朝食を日々の小さな楽しみとしながら淡々と生きていきたいものだ。」 これって、ひょっとしてなんかのポオズなの?とても、本音と思えないだけに、かえって韜晦のイヤミが後味わるい。

ま、愛する詩人=学者へ、たまには皮肉なこともいいたくなったので。

5月も終わり。なんとかかんとか生きていますよ、Yさん。

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