10月1日(月) 曇り

川本三郎『荷風と東京』から始まり、『摘録 断腸亭日乗』の拾い読み、『墨東綺譚』の約30年ぶりの再読へと進んでいるところ。

昨日の購入本。巽孝之「『2001年宇宙の旅』講義」(平凡社新書、350円)、山口瞳編「ゲーム的人間」(新潮社、100円)。駅の近くで元教え子のOさんに再会。

10月3日(水) 晴れ

仲秋の名月が、澄んだ夜空に輝いている。今朝、疲れたあたまと心でもって、寝床でうつらうつらと考えた。わたしの小学3年の秋だったか、お供えの餅?と、焼酎の瓶にさしたススキでもって、お月様を愛でた宵があったことを、そのとき忽然と寝床で思い出したのだった。甘美な想い出だった。今日こんにち、家族でマンションのベランダから月を見上げる宵などあろうか。子供達はテレビに夢中であり、父親は仕事に追われてヘロヘロになって帰ってくるありさま。

この衰退、この衰亡をなんとしよう。それにつけても、かそけくもわたしの両親の代までは継承されてきたこの月に捧げる儀礼は、その起源がいかなるものであるかは知らず、どうもわたしの代でぱたりと子孫に継承されなくなったのは事実のようだ。そんなことを思って寝床で少し悲しくなった。

あまりにも忙しいこの頃。本もまったく読めないでいる・・・。PHP、SQL。課題山積のこの頃。今日は仕事で茅場町のスタジオにでかけた。日本橋水門の手前の、船を浮かべた水堀に、とおく荷風を想った。

10月5日(金) 曇り 月日は流れわたしは残る・・・

岩波文庫版の『墨東綺譚』、これを買ったのは、昭和47年(1972年)の10月8日である。当時高1だったわたしは、この一冊で荷風が好きになり、続けて高2の頃だったかに古書店で新潮社の文学全集を買い求めて荷風世界に親しもうとしたが、さすがに『おかめ笹』『腕くらべ』などの情痴の世界についてゆけず、『狐』などの数編を読んでいったんの終わりとした。

相応に大切にしてきた岩波文庫版だが、月日は流れること29年。奇しくも同じ仲秋の夜更けに寝床で手に取ると、美麗だったはずの本文の紙も、微かに懐かしい香りはするものの、湿気のせいかシミだらけになっている。本もまた歳をとるのかと、しみじみと思うのだった。

本のカバーは、鹿児島の春苑堂書店のもの。その書店のそばに、当時憧れていた年上のひとの職場があった。秋の夜更けに、だからわたしは彼女のことを想ったのである。荷風の文庫本をかった秋、わたしは16になったばかりだから、彼女は19だった。そしてそれからの29年の歳月・・・。我が人生に悔いなし、などとはとても思わない。わたしは秋の夜更けに、ひっそりと涙を零した・・・。

10月6日(土) 晴れ

久しぶりに日差しが暖かいので、イグアナをベランダで日光浴させている。うれしそう。

「建て込んだ汚ならしい家の屋根つづき。風雨の来る前の重苦しい空に映る燈影を望みながら、お雪とわたくしとは真っ暗な二階の窓に倚って、互いに汗ばむ手を取りながら、ただそれともなく謎のような事を言って語り合った時、突然ひらめき落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今もなおありありと目に残って消え去らずにいる。」

荷風のロマン主義。源はどこなのか?今朝も気になって『珊瑚集』(新潮文庫版)などをめくってみた。いいなあ、このロマン主義。16のわたしが荷風を好きになったのもむべなるかな。実をいうと、今のわたしは、16だった自分が恋しいのである。

10月8日(月) 曇り

アマゾンで、SIMON SINGH "FERMAT'S ENIGMA The Epic Quest to Solve the World's Greatest Mathematical Problem"(1343円)を注文した。訳書でも良かったのだが、値段が倍近いのと、このところ英語から遠ざかり気味なので活性剤のつもりで原書(ペーパーバック版)を注文したのだ。昨日の朝。

さて、昨夜帰宅すると、もう日通便で届いていて、びっくり。どう考えても早すぎる。アマゾンの素早い対応とそれを可能にする物流システムにも感心したが、日通も首都圏の配送システムを強化しているのだろうか。

このSINGHさんの著作、日経書評でたいへん評価が高いので買ってみた。フェルマーの最終定理については、わたしもすでに富永裕久『フェルマーの最終定理に挑戦』(ナツメ社、1996年)という本を読んでいて関心は高いのだ。

フェルマーの最終定理が何故こんなに人気が高いかというと、ひとつは定理自体のわかりやすさと証明の困難さのギャップがあまりに大きいからだろう。数学には未解決の問題が山のようにあるといわれるが、多くは問題自体が素人には理解できないような難解なものである。フェルマーの最終定理は、定理自体は、いっけん平易で中学生でも理解できる。

X2+Y2=Z2 これにあてはまる自然数(X,Y,Z)の解は無数にある。中学校でならうピタゴラスの定理である。身近なところでは(3,4,5)とか(5,12,13)とか。ところが、Xn+Yn=Zn において、n=3,4,5・・・だと、これを満たす自然数の解(X,Y,Z)はない。これがフェルマー予想といわれるものである。1630年頃、ディオファントス「算術」第2巻の余白に書き込まれたメモであるという。

さて、ここから350年にわたる数学者の苦闘は如何なるものか?なんとかがんばって原著を読んでみよう。

他に、石神井公園草思堂にて、ゲーテ全集12(人文書院、300円)、マンやヘッセ、ヴァレリイ、エリオット、オルテガ、クローチェなどのゲーテ論、ゲーテ年譜、全巻総目次、国内ゲーテ文献リストなどを収める。これは便利で、そのわりに安かった。他に西原理恵子『怒濤の虫』(毎日新聞社)、こっちは昨晩だいたい読んだ。感想というほどのことはないけど。ブックオフでは永井荷風『つゆのあとさき』(岩波文庫、200円)

10月10日(水) 

石井達夫「PC UNIXユーザのためのPostgreSQL完全攻略ガイド」(技術評論社、3480円)アマゾンから到着。

10月11日(水) 曇り

ようやく雨があがった。小野二郎「ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想(中公文庫、300円)吉祥寺外口書店。小野二郎は晶文社設立に参加し、編集者として名をはせたことを初めて知った。

渋谷区幡ヶ谷と往復の日々。新しいサイトがようやく立ち上がった。

10月14日(日) 晴れ

昨日今日といい天気だ。汗ばむほどの日差しの強さが恋しい。メールや携帯やPCのせいで自宅でも仕事漬けになる日々。すこし心を癒したい。中村光夫『日本の近代小説』(岩波新書、350円)。高校生の頃読んだ本で、実家にあるはずだが、読みたくなってまた買った。買って、荷風や一葉やらのところを拾い読み。やや高いところから俯瞰的に書くスタイルがむかしあまり好みではなかったが、「近代小説」の諸相を社会学的な考察も交えてこれだけ簡潔にまとめるのはたいへんな力量だろうと、いま感得する。明治の文学者に光があたっているが、この本あたりは予習・復習に手頃な一冊とみたが如何。

日経新聞朝刊。文化面エッセイは高橋源一郎「家」。めぐるましく家から家へと転々とした少年時代・青年時代の想い出。そして今鎌倉の奥にすまう古い日本家屋への愛着。縁側に座布団を敷きつめて横になっていたら、いつの間にか眠ってしまった。目を覚ますと、高い高い青空が見えた。一瞬、わたしは自分がどこにいるのかわからなかった。直前まで夢を見ていた。そこから引きずったままの感情が溢れそうだった。(記事より引用)他に、芳賀氏のコラムでは江戸のホームレス詩人、一茶の句。ど の 星 の 下 が 我 家 ぞ 秋 の 風  そういえば一茶の俳句集って持ってたっけな?こんど買おう。書評欄では、堀江敏幸氏が菅野賢治「ポール・レオトーの肖像」(水声社、6,000円)を推す。そのなかのレオトーのことば。「肝心なのは、自分を探すことだ。そして自分を見つけ出すためには、自分を二重化すること、自分自身を見ようと努めること」

石神井公園にて、『ヴァレリー全集 7』(筑摩書房、500円)マラルメ論を収める。丸谷才一・山崎正和『二十世紀を読む』(中公文庫、280円)

10月15日(月) 晴れ

アマゾンからは2冊が届いた。SIMON SINGH "The Code Book -The science of secrecy from ancient egypt to quantum cryptography"(Anchor Books、1566円)、神坂次郎『熊野まんだら街道』(新潮文庫、705円)。暗号に関する本としては、キッペンハーン『暗号攻防史』(文春文庫)なんて本も以前買って完読していないありさまなのだが、世評につられて買った。ポー『黄金虫』以来たいして進歩していない自分のような気もするが、インターネット時代は堅牢かつ難解きわまりない暗号を生み出し続けている。そんな時代に暗号の歴史を書くのは意外と難しかろう。というわけでお手並み拝見である。

10月19日(金) 晴れ

台風一過の秋晴れ。

昨日は吉祥寺りぶる・りべろにて丸谷才一・山崎正和『見わたせば柳さくら』(中公文庫、380円)。古代日本における桜の呪術性について話がはずんだのち、やおらアドニス儀礼に話がとぶ。このリズムにわくわくする。もったいなくて昨夜は読むのを止めた。週末の楽しみとしよう。

石神井公園草思堂にて、アントニオ・タブッキ『フェルナンド・ペソア最後の三日間』(青土社、450円)、瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに』(中央公論社、350円)。

10月21日(日) 晴れ

このところ週末は静かに自宅とその周辺で過ごしている。イグアナの日光浴をさせたりして。

秋の夜長、けっこう本も読んでいるのだがまとまった感想が書けない。現在読書中の、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』。私には珍しく原書を読み進めていて、今約70%を読破したところだ。時折、富永裕久『フェルマーの最終定理に挑戦』(ナツメ社)をめくりながら。夭逝の天才数学者谷山豊のこともシンさんの本で詳しくわかった。

石神井公園にて『怖い食卓』(北栄社、250円)。三宝寺池のあたりを散策した。

10月24日(水) 晴れ

水上勉『一休文芸私抄』(中公文庫、250円)、幸田露伴『一国の首都』(岩波文庫、400円)を「りぶる・りべろ」にて。

10月27日(土) 晴れ

Simon Singh "FERMAT'S ENIGMA"(Anchor Books)を読了した!ここで感嘆符がつくのは、原書に挑戦して見事読み終えることができたから。わたしの乏しい語学力では、完全に理解できたとは言い難いし、数学的な解説についても当然ながらおぼろげに推察する程度である。そんな私ですら、最後まで読むことができたのも、筆者シンさんの筆力によるものだろう。前にも書いたように、より数学に比重をおいた本もあるし(富永裕久『フェルマーの最終定理に挑戦』)それはそれで見識のあるアプローチだと思うが、わたしはこのシンさんの本で、夭逝した天才谷山豊と志村五郎(現プリンストン大教授)のふたりが過ごした戦後の輝ける短い青春や、ついに定理の証明を実現したワイルズ(プリンストン大教授)の長い苦闘を初めて知ったし、本の最後ではワイルズさんと一心同体になって数学という迷宮のなかで苦悶したりしたのだった。(Having ventured farther than ever before and failing over and over again, they(=Wiles and Taylor) both realized that they were in the heart og an unimaginably vast labylinth.)

さてこの証明には後日談がある。数年前の新聞の片隅に、「谷村・志村予想」米仏チーム証明か?という記事が載っていた。たまたまとってあったので今読んでいるのだが、どうもこういうことらしい。ワイルズ教授がフェルマーの最終定理の証明に援用したのは先の谷村・志村両氏の「楕円関数」に関する壮大な予想であるが、ワイルズ教授はこの予想の特別な場合を証明することで、(副産物として)フェルマー予想を証明したのである。この谷村・志村予想が最終的に証明されたらしいと、先の新聞記事は伝えている。証明に導いた数学者チームには、ワイルズ教授の証明を手伝ったテイラー教授の名前も挙がっている。

(サイモン・シンさんの本はこちらです。)

長谷川時雨『旧聞日本橋』(岩波文庫、350円)、永井荷風『すみだ川・新橋夜話』(岩波文庫、180円)

10月28日(日) 

昨日は午後から神田駅でKさんの事務所訪問。早めに家をでて、神田古書街を覗いた。三茶書房、稲垣足穂大全揃い4万円、幸田露伴随筆(揃)1万円など。信山社アネックス2階の岩波専門古書店もひやかしたが、岩波文庫のあまりの高さにびっくり仰天。これならこの私も一財産築いてることになる(笑)。結局、世界に名だたる古書店街にでかけて何も買わずじまいだった。その後、神田駅そばまで歩いて、旧友K君、I君と再会・歓談、中華料理旨し。おふたりに深謝。車中、幸田露伴『魔法修行者』を読むも集中できず。

今朝は、池袋に長男といっしょに『千と千尋の神隠し』を観にいった。当然のことながら涙腺がゆるみっぱなし。記憶の古層の、魂の襞に直接ふれるような映像の美。アニメでここまでできるのか。少女のこころのなかの<アニムス>的なものの発見と救済。少女が、穢れと狂気に通底し、それを癒すということ。不思議な世界の映像美に、なぜか熊野詣でなどが頭によぎった。

10月30日(火) 曇り

昨日りぶる・りべろにて矢代静一『小林一茶』(河出書房新社、800円)、「表現者としての修羅を生きぬいた漂泊の人生詩人小林一茶の劇的な生涯」(帯より)。このところ、毎日曜日の日経文化面芳賀徹氏のコラムに小林一茶が登場し、長年小林一茶をふかく知ろうとしなかった自分を反省している。りぶる・りべろには、ざっと店内を見回しただけで、角川俳句大系本?(3,000円)やら筑摩の日本詩人選の1冊(800円)やら岩波文庫版やら、一茶関連の本がたくさんみつかり感動した。(アマゾンの検索結果

10月31日(水) 晴れ 吐いたものを食べられぬという事からテロリズムまで

日経夕刊、哲学者鷲田清一氏のコラムのなかにハッとする一節があった。「食べるということは自他の感覚と深く結びついている。人間が、うがいをした水を飲めないのも、もどした物をもういちど食べられないのも、それが自分の一部か自分でないものかが不明となるからである」この前後にも明晰な文があるので、ここだけの引用は適切ではないが、ここらあたりでハッと思った。狂牛病。牛の発育を早めるために?、同じ種の骨肉を、あろうことか草食動物である牛に食わせることが慢性化した結果だ。テロ。テロリスト自身が信条によって生きようが死のうがそれはともかく、無辜の民を巻き込んで本懐を遂げるおこない。いずれも、鷲田氏のいう、<当たり前の禁忌>が、技術や宗教のせいで侵犯されている。ベルグソンのいう「道徳と宗教の2つの源泉」、あいも変わらず重要な示唆だなと、深夜ふと思うのであった。

ラッセル『ラッセル結婚論』(岩波文庫、500円)を吉祥寺にて。ここにも同種の指摘があった。詳細略す。

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